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第25話
ピンポーン、と小さなチャイムが鳴る。
「……っ!」
美羽は慌てて手を拭き、玄関へと駆けた。
扉の向こうにいたのは──
ネクタイを緩めた、少し疲れた顔の誠司だった。
「ただいま……ってほどじゃないけど」
どこか照れたように笑うその顔に、
美羽も思わず笑みを返す。
「おかえりなさいませ。あの……お茶でもどうかなって、少しだけ準備してて……」
「……あ、はい。じゃあ……少しだけ」
リビングへと案内すると、誠司の足がふと止まる。
テーブルの上には、いくつかのパンと湯気の立つコーヒー。
二人分のカップと皿。
ふわりと漂う、焼きたての香り。
「……これ、買ってきてくれたんですか?」
「はい。さっき、近所のおばさんにパン屋さんを教えてもらって……。
行ってみたら、つい、選びきれなくて……」
美羽は恥ずかしそうに、視線を落とした。
誠司は、その光景を静かに見つめていた。
「……パン、買ってきてくれるなんて、思ってなかったです」
それは、ふいにこぼれた本音だった。
ほんの通過点のような気持ちで立ち寄った家。
けれどそこには、自分のために用意された“時間”があった。
「ありがとうございます」
「いえ……よければ、どうぞ。お口に合えばいいのですが……」
誠司が椅子に腰を下ろし、美羽がコーヒーを注ぐ。
注ぐ音が、静かな部屋にふわりと広がる。
その手元を、ふと見つめながら──
(……“帰る場所”って、こういうものなんだな)
誠司は、そんなことを考えていた。
待っていてくれる人がいて。
自分のために、何かをしてくれていて。
それが、思っていたよりもずっと、あたたかかった。
「……パン、すごく美味しそうですね。
おばさん、いいお店を教えてくれましたね」
「はい。ふふ……そのお宅の犬の名前が、“バター”ちゃんって言うらしくて」
「バター?」
「“食べられちゃいそうでしょ?”って。ちょっと笑っちゃいました」
くだらないのに、優しい会話。
そんな他愛のない言葉のやりとりさえ、
美羽には、胸がぎゅっとなるほど、うれしかった。
しばらくして、誠司がぽつりと言った。
「……今度、一緒に行ってみませんか? そのパン屋さん」
「え……?」
「美羽さんと。……一緒に行けたらいいなと思って」
思いがけないその言葉に、美羽は目を見開き、
すぐに、小さく微笑んだ。
「……はい。わたしも、行きたいです」
その返事に、誠司の顔から緊張がすっと抜ける。
小さな空気の緩みが、ふたりの間にできた。
その空気が愛しくて──
美羽は、ふと、小指を立てた。
「……じゃあ、“約束”です」
一瞬だけ、誠司が驚いた顔をする。
けれど、すぐにやわらかく笑って、
そっと小指を伸ばしてくれた。
ふたりの指が、静かに触れ合う。
その一瞬のぬくもりに、
美羽の心臓がどくん、と大きく跳ねた。
(……優しい)
ただそれだけで、涙が出そうになるほど、心が満たされていく。
「……約束ですね」
「……はい」
指を離しても、感触はそこにあった。
美羽は自分の小指を見つめながら、
胸の奥に、そっと言葉を落とす。
(ただパン屋に行くだけの約束なのに……)
(……こんなに、うれしいなんて)
その時、テーブルの上でスマートフォンが震えた。
誠司が画面を確認し、息を吐く。
「……そろそろ行かないと」
「……はい」
立ち上がった誠司の背筋は、もう“会社の人間”のそれに戻っていた。
けれどドアの前でふと振り返り、言う。
「今日も、遅くなると思います。……先に休んでいてくださいね」
(──また、“待つ側”だ)
ほんのさっきまで、小指で触れ合っていたのに。
まだ、温もりが指に残っているのに。
それでも、また時間は離れていく。
──だって私は、本物の“妻”じゃないから。
「いってらっしゃいませ」
「……行ってきます」
扉が閉まり、静けさが戻る。
美羽は、ゆっくりと立ち上がり、
コップを洗いながら、何度も誠司の言葉を反芻していた。
──◇──
駅へ向かう道を、誠司はスマホ片手に歩いていた。
熊田と笠井とのグループチャットには、
白井の案件に関する嘆きが並ぶ。
《マジで意味不明な資料なんだけど?》
《“担当者不明”って何……幽霊か?》
《契約書もぐちゃぐちゃ。再確認確定……》
誠司は歩みを崩さず、返信を打つ。
《確認する。案件リスト、再送してくれ》
《こちらでも整理しておく。取引先別で洗い出そう》
(──ここからが本番だ)
不正は終わった。
だが、山のように積まれた“後始末”は、これからだ。
誠司は、ふとポケットの中の手に力を込める。
さっき触れた、美羽の指の感触が、まだ残っている気がした。
(……ちゃんと、伝えればよかったかもしれない)
“課長に推薦されたこと”──
きっと彼女なら、驚きながらも、
静かに話を聞いてくれただろう。
ほんの短い時間だった。
けれど、確かにそこには“帰る場所”があった。
それだけで、もう一歩、前へ進めそうな気がしていた。
誠司はスマホをポケットに収め、
その足を、再び仕事の中へと向けていった。
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