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第26話
戻った社内は静かだった。
人の出入りの少ない会議スペースに、3人が持ち寄った資料とパソコン。
誠司は、黙って机に向かっていた。
広げられた白井の引き継ぎ資料。
開いた瞬間に、嫌な汗がにじむほどの雑さだった。
(……まるで、誰にも見られない前提で作られたようだ)
日付の整合性が取れていない。
取引先の担当者名が空白。
契約金額が“参考”と書かれたメモ用紙のまま。
誠司は目を細めながら、手元の書類を一つひとつ、再確認していった。
「これ、半年前の契約書だけど……署名が“名無権兵衛“で通ってる」
「おいおい、“ななしのごんべえ“で通るって、喧嘩売ってんのか……?」と熊田が小声でつぶやきながら、別の資料を確認していた。
「取引先の担当者、名前書いてあるのに実際はもう異動済みっていうの、結構あってさ……お前一体何してたんだよ、って呆れるしかないだろ、ほんと…」
笠井がつぶやく声も、重く響く。
誠司は静かにペンを置き、
目の前の紙の束を一度すべて重ね直した。
(やるしかない。全部、いちから)
もう、白井が何をどう隠したかはどうでもよかった。
問題は──
その“不誠実のあと”を、誰かが誠実に整理しなければ、社としての信用が崩れてしまうこと。
(ここを越えられずに、“課長”になんかなれるはずないだろ)
そんなことは、誰にも口には出さない。
けれど、誠司の中ではもう、覚悟は決まっていた。
「熊田、例のデータベースの最新バックアップ、部内の共有サーバーにあるか分かるか?」
「あー、あると思う。3月末で更新してんのあったと思う。探してパス送るわ」
「頼んだ。笠井は、経理の佐藤さんにも確認を。
白井が使ってた仮伝票、控えあるかもしれない」
「……了解」
チームの手が、一つに向かって動き出した。
誠司はその中心で、何も言わず、
ただ静かに指を動かし続けた。
その顔に、焦りはなかった。
だが──眼差しには、確かな責任が宿っていた。
(今日も遅くなる。……でも、今だけは)
(“任される”ということに、ちゃんと応えたい)
そして、どこかで──
(あの人が待ってくれている)
その事実だけが、背中を支えてくれていた。
時計の針が、日付を越えていた。
誰もいないオフィスの灯りの下で、
紙とデータを照合し続けた数時間。
ようやく区切りがついたのは、午前を迎えてしばらくしてからだった。
「……終わった、な……」
椅子の背にもたれながら、熊田が息を吐いた。
「マジで白井の置き土産、最悪すぎる……。
もう少しで、マウス投げるとこだったわ」
「そんな体力、残ってないだろ」
笠井がヘラヘラ笑いながら、書類をまとめて鞄に詰める。
誠司は、端整に並べられたファイルを確認しながら立ち上がった。
「明日……というか今日か。
引き継ぎ先の企業へ、正式に担当交代の挨拶だな」
「だな。本来なら課長と俺ら2人で行く案件だよな」
笠井がぽつりと呟く。
「今、課長不在……ってことは、部長が行くのか?」
「部長がわざわざ来るって、向こうもビビるだろ……」
熊田が頭をかきながら、廊下に出る。
エレベーターの前までの道のりは、誰もいない。
蛍光灯の白がやけにまぶしく感じた。
「……まあ、誠司が課長になりゃいいんじゃね?」
エレベーターを待ちながら、熊田が何気なく言った。
「え?」
「いや、マジで。白井の後に誰が入るか知らんけど──
誠司がいちばん、ちゃんとしてんじゃん」
「……わかる。俺も同感」
笠井も軽く頷いた。
「どうせ年だけ食った使えない奴が来るより、今いるメンバーの方が現場も回しやすいし。正直俺は、誠司以外、想像つかないけどな。」
誠司は、一歩だけ遅れて歩きながら、二人の背中を見ていた。
言葉を返さなかった。
笑いもしなかった。
でも──
胸の奥で、あの時、部長に言われた言葉がよみがえっていた。
(──君を、社長に推薦したいと思っている)
(空いた“課長職”に、だ)
まだ誰にも、言っていない。
けれど、その未来は、確かに“現実”として、誠司の目の前にあった。
「……とりあえず、今日は帰ろう」
「おー、帰って寝ようぜ。明日ってか、今日も地獄だしな」
「誠司、コーヒー奢って。課長候補だろ。」
「……なら候補祝い選出に奢ってくれ。」
「えっ!?マジかよー! 出世払い出世払い!」
夜の空気に、少しだけ笑い声が混ざる。
その中で誠司は、何も言わずに歩きながら──
胸の奥に、ひとつだけ言葉を繰り返していた。
(……期待に、応えたい)
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