28 / 59

第27話

玄関の鍵をそっと回し、静かに扉を開けた。 深夜の空気は冷たく、室内に漂う柔らかな“家の匂い”が、ふわりと鼻をかすめる。 靴を脱ぎながらリビングに目をやった誠司は、そのまま、ふと息を呑んだ。   ──灯りが、ついていた。   ソファの上、ブランケットにくるまり、膝を抱えたまま眠っている美羽の姿。 その傍らには、ラップのかけられたご飯茶碗と、温められていたであろう小さなおかず。   (……待っててくれたんだ)   誠司は、何も言わずにそっと近づき、美羽の寝顔を見つめた。 少しだけ開いた口元。 前髪が頬にかかっていて、つい指で払ってやりたくなる衝動を、ぎゅっと押し込める。   (……ごめん)   静かに胸の中で、そう呟いた。 「先に休んでて」と伝えたのに。 それでも、美羽は“帰ってくる”自分を、こうして待っていてくれた。   (……こんなふうに待ってくれる人がいるだけで、どれだけ救われるんだろう)   そっと息をついて、誠司は目を伏せる。 そして、静かに思った。   (課長になれば、もっと稼げる。  もっと、不自由のない生活を──美羽さんに)   今の暮らしに不満はない。 けれど、“守りたい人”ができた今、もっと与えられる自分でありたいと願ってしまう。   ──でも、それは同時に、家にいる時間が減るということでもあった。 部署は荒れる。引き継ぎも山ほどある。 夜、こうして帰れる日が、これからもあるとは限らない。 それでも──   (この人がそばにいてくれるなら、俺は、きっと頑張れる)   誠司はそっとしゃがみ、美羽の膝にかけられたブランケットを整える。 それから静かにその身体を抱き上げた。   細く、軽い。 まるで、風に舞う羽のような身体。 一歩ごとに力加減を確かめながら、ゆっくりと寝室へ向かう。 ブランケットごとそっと抱えた美羽は、身じろぎもせず、小さな寝息をたてていた。   (眠ってる……よかった)   そう安堵した、その瞬間だった。   「ん……」   夢と現の狭間、美羽がふわりと身を寄せてきた。 すん……と、小さな鼻先が、誠司の胸元にすり寄る。 その微かな動きとともに、ほんのりとした石鹸の香りが立ちのぼる。   「……っ」   誠司の呼吸が、止まった。 首筋から胸元へ、じわじわと熱が広がっていく。   ──このまま、抱きしめてしまいたい。 ──指先で、その背をなぞって、自分の体温で包み込みたい。   いや── (違う。こんなのは……)   理性が制止する。 けれどその声に、重なるように、もっと濁った本能の声が囁く。   (ぐちゃぐちゃにしてやりたい)   思わず、目を閉じた。 まさか、自分にこんな“欲望”があったなんて。 (……触れたい) (壊してしまうくらいに、抱きしめたい)   でも── 誠司は、その手をそっと引いた。 ベッドに、美羽をゆっくりと横たえる。 シーツを整え、肩まで布団をかけてやると、深く息を吐いた。   (……自分にも、こんな感情があったんだな)   苦笑いが、喉の奥で漏れる。 声には出さず、心の中でだけ呟いた。   「……美羽さんが、無防備すぎるんですよ」   灯りを落とし、誠司は静かにベッドから離れる。 「……おやすみなさい」 そう呟いて、寝室のドアをそっと閉めた。 その背に宿ったのは、 理性と本能のはざまで揺れた男の、静かな疲労だった。   ──◇──   まぶたを開けると、天井が見えた。 (……ベッド?) 寝ぼけた意識のまま、自分の状況を確認する。 確か──昨夜は、ソファで待っていたはずなのに。   ゆっくりと横を向く。 誠司のベッドは、きれいに整えられ、誰の姿もない。   (……運んでくれたんだ)   胸の奥が、じんと熱くなった。 毛布を手に、寝室をそっと出る。   ──そして、リビングに入ってすぐ、息をのんだ。   朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。 その中で、ソファに寄りかかるようにして、眠っている誠司の姿。 片腕を肘掛けに投げ出し、胸には一枚のブランケット。   (……リビングで、寝たんだ)   運んでくれた後、自分のベッドでは眠らなかったのだと気づいて── 美羽はそっと近づき、手にしていた毛布をかけようとした。 その瞬間。   「……ん……」   誠司のまぶたは閉じたまま。 眠ったまま、無意識に手が動いた。 ──美羽の手首を、ふわりと掴んだ。   「っ……」   驚くほど優しく、けれど確かに、指先がふれていた。 その一瞬──   ビリッ、と。 何かが走った。   (あ……)   指先から背中へ、全身を駆け抜けるような感覚。 熱が走り、呼吸が詰まる。 思わず手を引く。   その刹那、誠司の手が緩む。 その隙に、美羽は一歩、距離を取った。   手が、震えていた。 かすかに痺れて、熱をもっている。   (……なに、これ)   ただ、ふれられただけ。 誠司は、何もしていない。 それなのに── どうして、こんなにも身体が反応してしまうのか。   答えのない問いを抱えたまま、美羽はその手を胸元に押さえ、震えを隠すように洗面所へと駆け込んだ。   扉を閉めて、鏡を見つめる。 唇をかすかに噛みしめ、頬は淡く紅をさしていた。   (……どうして) (ふれただけなのに、こんなにも)   洗面台に手をついて、息を整える。 けれど、手のひらにはまだ── あの温もりの記憶が、確かに残っていた。

ともだちにシェアしよう!