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第27話
玄関の鍵をそっと回し、静かに扉を開けた。
深夜の空気は冷たく、室内に漂う柔らかな“家の匂い”が、ふわりと鼻をかすめる。
靴を脱ぎながらリビングに目をやった誠司は、そのまま、ふと息を呑んだ。
──灯りが、ついていた。
ソファの上、ブランケットにくるまり、膝を抱えたまま眠っている美羽の姿。
その傍らには、ラップのかけられたご飯茶碗と、温められていたであろう小さなおかず。
(……待っててくれたんだ)
誠司は、何も言わずにそっと近づき、美羽の寝顔を見つめた。
少しだけ開いた口元。
前髪が頬にかかっていて、つい指で払ってやりたくなる衝動を、ぎゅっと押し込める。
(……ごめん)
静かに胸の中で、そう呟いた。
「先に休んでて」と伝えたのに。
それでも、美羽は“帰ってくる”自分を、こうして待っていてくれた。
(……こんなふうに待ってくれる人がいるだけで、どれだけ救われるんだろう)
そっと息をついて、誠司は目を伏せる。
そして、静かに思った。
(課長になれば、もっと稼げる。
もっと、不自由のない生活を──美羽さんに)
今の暮らしに不満はない。
けれど、“守りたい人”ができた今、もっと与えられる自分でありたいと願ってしまう。
──でも、それは同時に、家にいる時間が減るということでもあった。
部署は荒れる。引き継ぎも山ほどある。
夜、こうして帰れる日が、これからもあるとは限らない。
それでも──
(この人がそばにいてくれるなら、俺は、きっと頑張れる)
誠司はそっとしゃがみ、美羽の膝にかけられたブランケットを整える。
それから静かにその身体を抱き上げた。
細く、軽い。
まるで、風に舞う羽のような身体。
一歩ごとに力加減を確かめながら、ゆっくりと寝室へ向かう。
ブランケットごとそっと抱えた美羽は、身じろぎもせず、小さな寝息をたてていた。
(眠ってる……よかった)
そう安堵した、その瞬間だった。
「ん……」
夢と現の狭間、美羽がふわりと身を寄せてきた。
すん……と、小さな鼻先が、誠司の胸元にすり寄る。
その微かな動きとともに、ほんのりとした石鹸の香りが立ちのぼる。
「……っ」
誠司の呼吸が、止まった。
首筋から胸元へ、じわじわと熱が広がっていく。
──このまま、抱きしめてしまいたい。
──指先で、その背をなぞって、自分の体温で包み込みたい。
いや──
(違う。こんなのは……)
理性が制止する。
けれどその声に、重なるように、もっと濁った本能の声が囁く。
(ぐちゃぐちゃにしてやりたい)
思わず、目を閉じた。
まさか、自分にこんな“欲望”があったなんて。
(……触れたい)
(壊してしまうくらいに、抱きしめたい)
でも──
誠司は、その手をそっと引いた。
ベッドに、美羽をゆっくりと横たえる。
シーツを整え、肩まで布団をかけてやると、深く息を吐いた。
(……自分にも、こんな感情があったんだな)
苦笑いが、喉の奥で漏れる。
声には出さず、心の中でだけ呟いた。
「……美羽さんが、無防備すぎるんですよ」
灯りを落とし、誠司は静かにベッドから離れる。
「……おやすみなさい」
そう呟いて、寝室のドアをそっと閉めた。
その背に宿ったのは、
理性と本能のはざまで揺れた男の、静かな疲労だった。
──◇──
まぶたを開けると、天井が見えた。
(……ベッド?)
寝ぼけた意識のまま、自分の状況を確認する。
確か──昨夜は、ソファで待っていたはずなのに。
ゆっくりと横を向く。
誠司のベッドは、きれいに整えられ、誰の姿もない。
(……運んでくれたんだ)
胸の奥が、じんと熱くなった。
毛布を手に、寝室をそっと出る。
──そして、リビングに入ってすぐ、息をのんだ。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
その中で、ソファに寄りかかるようにして、眠っている誠司の姿。
片腕を肘掛けに投げ出し、胸には一枚のブランケット。
(……リビングで、寝たんだ)
運んでくれた後、自分のベッドでは眠らなかったのだと気づいて──
美羽はそっと近づき、手にしていた毛布をかけようとした。
その瞬間。
「……ん……」
誠司のまぶたは閉じたまま。
眠ったまま、無意識に手が動いた。
──美羽の手首を、ふわりと掴んだ。
「っ……」
驚くほど優しく、けれど確かに、指先がふれていた。
その一瞬──
ビリッ、と。
何かが走った。
(あ……)
指先から背中へ、全身を駆け抜けるような感覚。
熱が走り、呼吸が詰まる。
思わず手を引く。
その刹那、誠司の手が緩む。
その隙に、美羽は一歩、距離を取った。
手が、震えていた。
かすかに痺れて、熱をもっている。
(……なに、これ)
ただ、ふれられただけ。
誠司は、何もしていない。
それなのに──
どうして、こんなにも身体が反応してしまうのか。
答えのない問いを抱えたまま、美羽はその手を胸元に押さえ、震えを隠すように洗面所へと駆け込んだ。
扉を閉めて、鏡を見つめる。
唇をかすかに噛みしめ、頬は淡く紅をさしていた。
(……どうして)
(ふれただけなのに、こんなにも)
洗面台に手をついて、息を整える。
けれど、手のひらにはまだ──
あの温もりの記憶が、確かに残っていた。
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