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第28話

「……っ」 洗面所の扉を閉めて、背中で支えるように立ち尽くす。 息がうまく整わない。 誠司の指先が触れた──ただそれだけのことが、 指に焼きついたような熱を残し、触れていない場所までもじんわりと疼かせていた。   (……ただ、触れられただけなのに) 滑るように指がかすめただけだった。 なのに、身体が。 はっきりと、反応していた。   喉が詰まり、太ももの内側に熱が灯る。 舌の奥が、じんと甘く疼くような、はじめての違和感。 こんなふうに“感じた”のは──人生で初めてだった。   (……誠司さんじゃなかったら、こんな風にはならなかった) そう思いたい。 けれど、その想いを打ち消すように、脳裏に貼りついていた“あの声”がまた蘇る。   ──「男ってのはね、触れるたびにビクッと震える、  見るからに“はじめて”みたいな反応が大好きなのよ」 ──「キスひとつで脚が震えるとか、吐息が漏れるとか。  “こいつ、俺のために感じてる”って錯覚させるの。分かる?」 ──「そんな女、ほんとは滅多にいないけどね。  要は、“どれだけうまく演技できるか”がすべて」 ──「喘ぎ方、力の抜き方、恥じらい方。  男が喜ぶ女を“作れなきゃ”、すぐ飽きられるわよ?」 ──「とにかく、“満足した顔”をさせてやんなさい。  そのあとに、財布の紐が緩むから」 ──「まぁ、本当に残念。  あんたには──濡れる股がなかったわね」   ガツン──と、頭の奥を殴られたような感覚。 声が、鼓膜の内側を焼くように反響する。   (僕は……自分の意思で“感じた”のか?) (それとも、“仕込まれた通り”に、反応しただけなのか)   どちらでもないかもしれない。 あるいは、そのどちらも──かもしれない。   でも、それでも、誠司の手の温度が。 そのやわらかさが、怖かった。   (もし、このままふれられ続けたら──) (演技じゃなく、本当に“この身体”で、愛されたいと願ってしまいそうで) (偽物なのに。“花嫁”として生きてるだけの嘘の女なのに) (……もし、抱かれたいって、思ってしまったら──)   手が震える。 心が痛む。   鏡を見た。 頬はほんのり色づき、目元には火照りの名残。 唇を噛んでも、それは消えなかった。   (……このままじゃ、誠司さんのこと──本当に、好きになってしまう)   それだけは、絶対に許されない。 いちばん自分が、それを知っている。   ──カーテン越しに、朝の光が差し込む。 鳥のさえずりが遠くで響く。 けれど誠司の耳に最初に届いたのは── シャワーの、水音だった。   「……ん」 目を薄く開け、天井を見上げる。 静かな部屋。 肌寒さを覚える、早朝の空気。   水の音は、規則正しくバスルームから聞こえていた。   (……美羽さん?) この時間にシャワー──それだけで、少し目が覚める。   (珍しいな) 不思議には思った。 でも、それ以上深くは考えず、 誠司はゆっくりと体を起こした。   ベッドの傍らには、たたまれた毛布。 (ああ……昨日、ソファで寝落ちしたんだった) ほんの数分休むつもりが、そのまま朝まで。   手ぐしで髪を整えながら、バスルームの扉にちらりと目を向ける。 まだ、シャワーの音は止まっていない。   (寒かったのか、それとも……眠れなかったのか) そう思ったけれど、それを訊くのは違う気がした。   誠司は寝室を出て、キッチンへ向かう。 (今日は少し、時間に余裕がある)   そう思いながら、コーヒーの準備に取りかかった。   お湯の音。豆の香り。 リビングに広がるその香りが、バスルームのドアの向こうで、 “気づかれていない揺らぎ”と混ざり合っていることに── このときの誠司は、まだ気づいていなかった。   ──◇──   シャワーを終え、タオルで髪を軽く乾かす。 そのあと鏡の前に立ち、“いつもの顔”をゆっくりと貼りつけた。   (大丈夫。“いつも通り”でいられれば) (なにも変わってない。変わらなくていい。  ……ちゃんと、“わたし”でいられれば)   扉を開けたとたん、コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。   香りが、温度が、空気が。 “この家の日常”を形づくっている。 そしてそれが、あの人の存在と、優しさと、記憶に結びついていることを── 身体のほうが、先に思い出してしまう。   「……おはようございます」 そっと声をかける。   ソファに座っていた誠司が、カップを口に運びながら振り返った。   「おはようございます。もう起きてたんですね」 「……ええ、少し早く目が覚めて」   視線は合ったけれど、すぐに逸らした。 美羽はテーブルの端に座り、マグカップを手に取る。 指先はまだ少し濡れていて、それをタオルで隠すように拭いた。   (いつもより、ほんの少し遠くに座ってる。……でも、たぶん気づかれない)   ──そして実際、誠司は気づかなかった。 仕事のことで頭がいっぱいだったから。   「今日も遅くなるかもしれません。  晩ごはんも自分でなんとかしますので、僕の分は大丈夫です」 「……はい。お気をつけて」   誠司の目は、美羽ではなくノートPCの画面に向けられていた。   眉間には皺、キーボードの打鍵音が乾いて響く。   (……誠司さん、忙しいんだ) (よかった……気づかれなくて)   本当は、少し寂しかった。 でも、それでいいと思った。   もし気づかれたら── きっと誠司は、また優しくしてくれる。 何も言わず、責めず、ただ黙って寄り添ってくれる。 だからこそ、怖かった。   (その優しさに、甘えたら──) (“美羽”じゃなく、“青羽”としての僕が……バレてもいいからって。  その体温を欲しがってしまいそうで)   カップを持つ指が、かすかに震える。 けれど、それもまた── 誠司の目には、映らなかった。   朝の会話は、それで終わった。 ふたりの間にあったのは、“沈黙”ではなかった。 “忙しさ”と“演技”が生んだ、小さな断絶。   それが、この日。 静かに、けれど確かに、“はじまり”を告げていた。

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