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第29話
チャイムが鳴ったのは、誠司が出勤してしばらく経った頃だった。
「……はい」
インターホン越しの画面に映ったのは、見慣れた笑顔。
隣に住むおばさんが、にこにこと手を振っていた。
玄関を開けると、彼女の手には小さな包み。
「おはよう、美羽ちゃん。これね、友達からのお土産。ちょっと甘すぎるけど、若い子なら喜ぶかなって。よかったらもらってくれる?」
「……ありがとうございます」
おばさんは、上がり込むこともなく、玄関先に立ったまま微笑んでいた。
けれど、その目はどこか鋭く、美羽の顔をじっと見つめてくる。
「……どうしたの? 顔色、いつもとちょっと違うわよ?」
「え……?」
「ケンカでもしたの? 旦那さんと」
──思わず、視線をそらした。
笑ってごまかそうとしたけれど、喉の奥に詰まった言葉が、うまく形にならない。
このおばさんのことを、最初は少し警戒していた。
馴れ馴れしく距離を詰めてくるのも、
優しすぎる言葉も、何かを奪いに来ているのかもしれないと──
昔の“あの人”を思い出して、警戒していた。
水谷さんは、いつだってそうだった。
奪うために優しくして、利用価値がなくなれば、切り捨てる。
だけど──このおばさんは、違った。
差し出されるのは、余った惣菜やお菓子。
履かないまま眠っていた靴下。
何かを見返りに求めてくることは、一度もなかった。
「……娘にね、やっと許嫁が決まったのよ」
そう笑ったときの、おばさんの横顔は、間違いなく“母親”の顔をしていた。
(……もし僕にも、母親がいたなら──あんなふうだったんだろうか)
知らないはずの“母の温もり”を、
いつしかこの人の中に、重ねて見るようになっていた。
だから、本当は言うつもりなんてなかった。
心配なんてかけたくなかった。
でも──気づけば、美羽は自分の胸元を、そっと押さえていた。
「……わたし、体に……大きな傷があるんです」
おばさんは目を見開いたが、口を挟むことはなかった。
「誠司さんは、そのことを知りません。
知られたら……きっと、引かれると思います。
それくらい、醜い傷で──」
唇がわずかに震える。
「嫌われるんじゃないかって、ずっと思ってて……でも、それなのに──」
ふ、と美羽は笑った。
それは、涙をこらえるための笑顔だった。
「……ふれてほしいって、思ってしまったんです」
沈黙が落ちる。
けれど、不思議と重くはなかった。
おばさんは、ふうん……と小さく頷き、
やわらかく微笑みながら言った。
「旦那さんのこと、すごく大好きなのね」
「え……?」
「傷があっても、ふれてほしいって思うのは、
きっと受け入れてほしいって、どこかで信じてるからじゃない?」
美羽の胸の奥に、その言葉がまっすぐ届いた。
何も言い返せなかった。
「心のことも、身体のことも──人それぞれよ。
どんな人だって、何かしら悩みは抱えてるの」
おばさんは、言葉を選びながら続ける。
「でもね、ふれてほしいって思うのは、とても自然なこと。
その気持ちは、あなたがちゃんと“誰かを大切に思ってる”証拠よ」
その声があたたかくて、美羽の喉が、ごくりと鳴った。
涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。
「……でも、わたし……」
「ねぇ、美羽ちゃん」
おばさんが、ふわりと優しく笑った。
「あなた、本当に優しい子ね。
だから、きっと旦那さんも──そんなあなたを、すごく大切に思ってると思うわ」
その一言に、美羽は、初めて少しだけ肩の力を抜いた。
(……“僕”だと知っても、それでも触れたいって思ってくれたら──)
(それは、どれだけ幸せなことだろう)
おばさんは、詮索することもなく、
ただ“そこにいてくれる”という優しさをくれた。
それが、どれだけ救いだったことか──
でも、それと同時に胸の奥に疼くものもあった。
(……本当は、こんなふうに言ってもらえる人間じゃない)
自分が抱えている“嘘”は、許されるものじゃないとわかっている。
それでも、美羽は心のどこかで願ってしまった。
「それでも、受け入れてくれるかもしれない」と──
おばさんが帰ったあとも、
玄関には、まだやさしい空気が残っていた。
美羽はその場に立ち尽くしたまま、静かに息を吐く。
(……好きなんだ)
言葉にしたとたん、胸がきゅっと痛んだ。
でも、もうごまかせない。
気づいてしまった。
だから──もう、知らないふりなんてできなかった。
(誠司さんのことが、好き)
笑ってくれるだけでうれしい。
優しくされると、涙が出そうになる。
名前を呼ばれるたび、
“美羽”としてでも、この人の隣にいたいと願ってしまう。
けれど──
(……知られてはいけない)
自分が“男”だということを。
それを知ったとき、この温かい時間が、全て壊れてしまうかもしれない。
(……離婚、って言われたら)
(顔も見たくないって、言われたら……)
想像するだけで、足がすくむ。
なのに──
昨夜、あの一瞬。
誠司にふれられた、その指先の感覚が、今も心の奥に残っている。
(ふれてほしいって、思った)
(全部を、見られてしまいたいって、思ってしまった)
──そんな自分が、一番怖かった。
でも、それが“本音”だった。
ずっと隠して生きていくなんて、もう耐えられないと、どこかで思っていた。
(でも……甘えてしまったら、終わる)
だから、美羽は小さく、覚悟を決めた。
(この“好き”という気持ちが、壊れてしまわないうちに──)
(ちゃんと、“美羽”として、誠司さんの隣に立てるようにならなきゃ)
おばさんの言葉が、胸の奥でそっと響く。
「誠司さんのこと、大好きなのね」
「あなたが触れてほしいと思うのは、信じてる証よ」
「その優しさを、きっと旦那さんも知ってるわ」
(……だったら)
美羽は、自分の胸元にそっと手を当てた。
心臓が、怖いくらいに速く打っている。
(“嘘”の中でもいい──でも、その中で、ちゃんと“本物”になりたい)
(周りから見ても、誠司さんを支える妻として、胸を張れるように)
それは、まだほんの小さな決意だった。
でも、確かに胸の奥で、静かに灯っていた。
──そして、美羽は、もう一度だけ深く息を吸い込んだ。
この気持ちを、胸に刻みつけるように。
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