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第30話

「キャラ……弁……?」 スマホに映る画像の数々に、美羽は目をぱちぱちと瞬かせた。 動物の顔、ごはんに海苔で描かれた表情、色とりどりの卵焼きとウインナー── どれも、見たことのない“たのしい世界”。 「……かわいい……」 思わず漏れた声には、ほんの少しだけ弾みがあった。   (こんなお弁当作れたら──誠司さん、びっくりしてくれるかな) (“すごいね”って、笑ってくれるかな)   その想像だけで、胸の奥がふわりとあたたかくなる。 どうせなら、自分が一番かわいいと思ったものを。 そう思って、美羽が選んだのは──   「……ヒヨコ」 卵でできた、小さな黄色いヒヨコ。 まあるくて、つぶらな目は黒ゴマ。 ちょこんとしたくちばしは、人参でできていた。   (これ、作ってみたい) その気持ちが、美羽の“はじめてのお弁当”に込められる、小さな決意となった。   ──◇──   いつもより少し早く目覚めた朝。 慣れない手つきで、包丁を握る。 人参を煮て、卵を巻いて、目にゴマをのせる。 気づけばキッチンは、小さな戦場みたいになっていたけれど── ふたを閉める直前、ヒヨコの目と、ふっと視線が合った気がした。 「……お願い、壊れないでね」 祈るように、そっとふたを閉めた。   ──◇──   「お弁当……ですか?」 「あの、もしご迷惑じゃなければ……」 「迷惑なんて、とんでもない。……いいんですか?」 「はい。最近は夕飯もあまりご一緒できていませんし……少しでも、と思って」   「ありがとうございます。大切にいただきます」 そう答えた時、美羽の頬がふっと緩んだ。 その笑顔があまりにも嬉しそうで── 誠司は、抱きしめたい衝動を何とか飲み込んで、「行ってきます」とだけ告げて扉を出た。   ──◇──   昼休み。 誠司はそっと弁当箱のふたを開けた。 そして、思わず噴き出しそうになった。   「……ふっ……」   そこにいたのは、まんまるい黄色いヒヨコ。 ごまの目が、まっすぐ自分を見上げていた。 (……なんだこれ、かわいすぎる)   いい歳した37のおっさんが照れてしまうぐらい、見た目は完璧に「ぴよちゃん」だった。 けれど、照れより先にこみ上げてくるのは、確かな嬉しさだった。   (不器用だけど……丁寧に作ってくれたんだな) “年若い妻”の、真剣で優しい気持ちがこもっていることが、よくわかる。 誠司は小さく「いただきます」と手を合わせた。   「え、それヒヨコか?!」 近づいてきた熊田が声を上げ、笠井もくすくすと笑った。   「マジでヒヨコじゃん。しかもめっちゃ目が合う……!」 「おい誠司、お前んとこの新妻、レベル高くない?」 「ぴよちゃん……これはやばい、完全にぴよちゃん弁当じゃん」 「もうあだ名それでいいんじゃね?“ぴよちゃん”」 「かわいすぎて笑うわ。俺も食べたい」   誠司は少しだけ顔を赤らめながら、「やめろって」とぼやいた。 でも── 心のどこかで、その呼び名を反芻していた。   (ぴよちゃん……か) その言葉に、美羽の顔がふっと浮かんで、自然と口元がほころぶ。   ──◇──   その夜、空になったお弁当箱を渡した美羽に、誠司はふと口を開いた。   「……ヒヨコ、可愛かったです。  お弁当、ありがとうございました」   その言葉に、美羽の頬がふわっと赤く染まり、言葉にならない笑顔が浮かんだ。 (……また、作ってもいいよね?) それは、誰に求められたわけでもない── けれど、確かに“妻でありたい”と思って選んだ、ささやかな朝のひとしごとだった。   ──◇──   「──課長昇進、おめでとうございます」   そう伝えた美羽の声には、迷いも間違いもなかった。 でも、その言葉がどれほどすごいことなのか──正直、実感はなかった。   仕事の責任?内容?──それとも、収入?   誠司は軽く笑って礼を言い、それから少しだけ目を逸らした。   「……これから、帰りが遅くなる日が増えるかもしれません。  迷惑かけますけど、その分……自由に使えるお金も増えます。  何か好きなものとか、習い事とか……どうですか?」   美羽は小さく首を横に振った。   「習い事なんて……。わたしも、もっと頑張らなきゃ。  お弁当以外にも、何かできることがあればいいのに……」   「……美羽さん」 その言葉を遮るように、誠司が一歩だけ近づいた。 そっと、美羽の指に自分の指を重ねる。   ほんの一瞬の、かすかな接触。 それだけで、美羽の心臓が跳ねた。   「まだ……触れることは、許してもらえませんか?」   誠司の声は静かだった。 怒っているわけでも、責めているわけでもない。 ただ、真摯に問いかけるような、優しい声だった。   だからこそ──   美羽は、息を詰めたまま言葉を飲み込む。 そして、ゆっくりと首を横に振った。   (……ごめんなさい) (嘘を隠すために、本当の“僕”を知られないために) (……あなたの優しさに、ふれちゃいけないから)   誠司はそれ以上何も言わず、 そっと、重ねた指を離した。   「……わかりました。無理はしないでください。  何より、あなたの気持ちが一番ですから」   その優しさが、ひどく痛かった。   (……ほんとは、ふれてほしかった) (でも、ふれてしまったら、あなたに“嘘をついてること”が……もっと、苦しくなる)   ただ“好き”という気持ちだけじゃ近づけない。 その現実だけが、ぽつりと残った。   ──◇──   「そろそろ、寝ましょうか」 まるで何事もなかったように、誠司は穏やかに言った。 あのやり取りをすべて忘れたかのように、 いつも通りの優しい顔で。   ──それが、苦しかった。   美羽は小さく頷いて立ち上がる。 でも、足取りはぎこちなく、視線は床から上がらなかった。 罪悪感が、身体の奥にじわじわと広がっていく。   (優しい……) (だから、余計に、苦しい)   ふたり並んでベッドに向かう。 ぴったりくっつかない、少しだけ距離のあるベッドの上。 それが今のふたりには、ちょうどよかった。   「……あの、美羽さん」 暗がりの中で、誠司が静かに言った。 伏し目がちに、わずかに微笑んで。   「さっきは……ごめんなさい。  あなたがまだそういう気持ちになれないのに、  僕が……焦ってしまった。情けないです」   その声は、自分を責めるように優しかった。 「あなたは、まだ18歳なんですよね。……無理もない。  時間が必要なのは当然です」   (……違う) (違うのに。全部、僕のせいなのに)   「……君の心が決まるまでは、  もう、あんなことは二度と言わないって誓います」   それは、誠司なりの覚悟だった。 どれだけ想っていても、どれだけふれたくても── それを押しつけないと、決めた声だった。   「……ありがとうございます」 美羽は、やっとその一言だけを返した。 その瞬間、胸の奥で── 何かが、ぎしりと軋む音がした。   (優しくされるほど、この“嘘”がどんどん重くなる)   布団に入っても、目を閉じられなかった。 けれど、隣からは── 静かで安らかな寝息が聞こえていた。   (“わたし“を、責めてくれたら楽だったのに──)   そう思ってしまった自分が、また少しだけ、嫌いになった。

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