32 / 59
第31話
「キャラ……弁……?」
スマホに映る画像の数々に、美羽は目をぱちぱちと瞬かせた。
動物の顔、ごはんに海苔で描かれた表情、色とりどりの卵焼きとウインナー──
どれも、見たことのない“たのしい世界”。
「……かわいい……」
思わず漏れた声には、ほんの少しだけ弾みがあった。
(こんなお弁当作れたら──誠司さん、びっくりしてくれるかな)
(“すごいね”って、笑ってくれるかな)
その想像だけで、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
どうせなら、自分が一番かわいいと思ったものを。
そう思って、美羽が選んだのは──
「……ヒヨコ」
卵でできた、小さな黄色いヒヨコ。
まあるくて、つぶらな目は黒ゴマ。
ちょこんとしたくちばしは、人参でできていた。
(これ、作ってみたい)
その気持ちが、美羽の“はじめてのお弁当”に込められる、小さな決意となった。
──◇──
いつもより少し早く目覚めた朝。
慣れない手つきで、包丁を握る。
人参を煮て、卵を巻いて、目にゴマをのせる。
気づけばキッチンは、小さな戦場みたいになっていたけれど──
ふたを閉める直前、ヒヨコの目と、ふっと視線が合った気がした。
「……お願い、壊れないでね」
祈るように、そっとふたを閉めた。
──◇──
「お弁当……ですか?」
「あの、もしご迷惑じゃなければ……」
「迷惑なんて、とんでもない。……いいんですか?」
「はい。最近は夕飯もあまりご一緒できていませんし……少しでも、と思って」
「ありがとうございます。大切にいただきます」
そう答えた時、美羽の頬がふっと緩んだ。
その笑顔があまりにも嬉しそうで──
誠司は、抱きしめたい衝動を何とか飲み込んで、「行ってきます」とだけ告げて扉を出た。
──◇──
昼休み。
誠司はそっと弁当箱のふたを開けた。
そして、思わず噴き出しそうになった。
「……ふっ……」
そこにいたのは、まんまるい黄色いヒヨコ。
ごまの目が、まっすぐ自分を見上げていた。
(……なんだこれ、かわいすぎる)
いい歳した37のおっさんが照れてしまうぐらい、見た目は完璧に「ぴよちゃん」だった。
けれど、照れより先にこみ上げてくるのは、確かな嬉しさだった。
(不器用だけど……丁寧に作ってくれたんだな)
“年若い妻”の、真剣で優しい気持ちがこもっていることが、よくわかる。
誠司は小さく「いただきます」と手を合わせた。
「え、それヒヨコか?!」
近づいてきた熊田が声を上げ、笠井もくすくすと笑った。
「マジでヒヨコじゃん。しかもめっちゃ目が合う……!」
「おい誠司、お前んとこの新妻、レベル高くない?」
「ぴよちゃん……これはやばい、完全にぴよちゃん弁当じゃん」
「もうあだ名それでいいんじゃね?“ぴよちゃん”」
「かわいすぎて笑うわ。俺も食べたい」
誠司は少しだけ顔を赤らめながら、「やめろって」とぼやいた。
でも──
心のどこかで、その呼び名を反芻していた。
(ぴよちゃん……か)
その言葉に、美羽の顔がふっと浮かんで、自然と口元がほころぶ。
──◇──
その夜、空になったお弁当箱を渡した美羽に、誠司はふと口を開いた。
「……ヒヨコ、可愛かったです。
お弁当、ありがとうございました」
その言葉に、美羽の頬がふわっと赤く染まり、言葉にならない笑顔が浮かんだ。
(……また、作ってもいいよね?)
それは、誰に求められたわけでもない──
けれど、確かに“妻でありたい”と思って選んだ、ささやかな朝のひとしごとだった。
──◇──
「──課長昇進、おめでとうございます」
そう伝えた美羽の声には、迷いも間違いもなかった。
でも、その言葉がどれほどすごいことなのか──正直、実感はなかった。
仕事の責任?内容?──それとも、収入?
誠司は軽く笑って礼を言い、それから少しだけ目を逸らした。
「……これから、帰りが遅くなる日が増えるかもしれません。
迷惑かけますけど、その分……自由に使えるお金も増えます。
何か好きなものとか、習い事とか……どうですか?」
美羽は小さく首を横に振った。
「習い事なんて……。わたしも、もっと頑張らなきゃ。
お弁当以外にも、何かできることがあればいいのに……」
「……美羽さん」
その言葉を遮るように、誠司が一歩だけ近づいた。
そっと、美羽の指に自分の指を重ねる。
ほんの一瞬の、かすかな接触。
それだけで、美羽の心臓が跳ねた。
「まだ……触れることは、許してもらえませんか?」
誠司の声は静かだった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、真摯に問いかけるような、優しい声だった。
だからこそ──
美羽は、息を詰めたまま言葉を飲み込む。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
(……ごめんなさい)
(嘘を隠すために、本当の“僕”を知られないために)
(……あなたの優しさに、ふれちゃいけないから)
誠司はそれ以上何も言わず、
そっと、重ねた指を離した。
「……わかりました。無理はしないでください。
何より、あなたの気持ちが一番ですから」
その優しさが、ひどく痛かった。
(……ほんとは、ふれてほしかった)
(でも、ふれてしまったら、あなたに“嘘をついてること”が……もっと、苦しくなる)
ただ“好き”という気持ちだけじゃ近づけない。
その現実だけが、ぽつりと残った。
──◇──
「そろそろ、寝ましょうか」
まるで何事もなかったように、誠司は穏やかに言った。
あのやり取りをすべて忘れたかのように、
いつも通りの優しい顔で。
──それが、苦しかった。
美羽は小さく頷いて立ち上がる。
でも、足取りはぎこちなく、視線は床から上がらなかった。
罪悪感が、身体の奥にじわじわと広がっていく。
(優しい……)
(だから、余計に、苦しい)
ふたり並んでベッドに向かう。
ぴったりくっつかない、少しだけ距離のあるベッドの上。
それが今のふたりには、ちょうどよかった。
「……あの、美羽さん」
暗がりの中で、誠司が静かに言った。
伏し目がちに、わずかに微笑んで。
「さっきは……ごめんなさい。
あなたがまだそういう気持ちになれないのに、
僕が……焦ってしまった。情けないです」
その声は、自分を責めるように優しかった。
「あなたは、まだ18歳なんですよね。……無理もない。
時間が必要なのは当然です」
(……違う)
(違うのに。全部、僕のせいなのに)
「……君の心が決まるまでは、
もう、あんなことは二度と言わないって誓います」
それは、誠司なりの覚悟だった。
どれだけ想っていても、どれだけふれたくても──
それを押しつけないと、決めた声だった。
「……ありがとうございます」
美羽は、やっとその一言だけを返した。
その瞬間、胸の奥で──
何かが、ぎしりと軋む音がした。
(優しくされるほど、この“嘘”がどんどん重くなる)
布団に入っても、目を閉じられなかった。
けれど、隣からは──
静かで安らかな寝息が聞こえていた。
(“わたし“を、責めてくれたら楽だったのに──)
そう思ってしまった自分が、また少しだけ、嫌いになった。
ともだちにシェアしよう!

