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第32話
──今度の休みに、行きましょう。
小さな声で、美羽がそう言った。
誠司は少し驚いたように目を見開き、それからふっと、穏やかに微笑んだ。
「……はい」
「お店、調べておきますね」
「お願いします。楽しみにしてます」
ベッドの中、ふたりの手がそっと触れ合い、
どちらからともなく、小指が伸びた。
「……ゆびきり、げんまん」
重ねられた小指に、そっと力がこもる。
それは、“本音”で交わした、たったひとつの約束。
──嘘の中に生まれた、未来のかたち。
あとは、もう言葉はいらなかった。
美羽の呼吸はゆっくりと落ち着き、
やがて安心したように、静かな寝息が聞こえはじめる。
誠司はその寝顔を見つめながら、長く息を吐いた。
(……よかった。ちゃんと、眠れてる)
泣き疲れているのかもしれない。
でも今だけは、少しでも安らいでくれていたら──
そんなことを思いながら、誠司の胸には静かな温もりが灯っていた。
けれど、その奥では──
(……大事にしたいだけだったのに)
(気づけばいちばん傷つけてるのが、俺なんだな)
(ほんと、笑えないよ……)
そのぬくもりすら痛みに変わるほど、
優しさはときに罪に似ていた。
誠司はそっと目を閉じた。
隣の寝息に耳を澄ませながら、願う。
せめて夢の中では、笑っていてほしいと──
──◇──
翌日。
昼休み、誠司はスマホを片手に検索結果を眺めていた。
「ドーナツ 人気店 駅近」──
ひたすらにスクロールを繰り返す。
どこがいいだろう。
どんな雰囲気が、美羽の好きそうな場所だろう。
(甘いものがたくさんあって、座れて、静かで……)
考えるだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
(“次は何食べる?”って、そんな会話ができたら──)
そんな時、不意に名前を呼ばれた。
「誠司くん、少しいいかな」
部長だった。
思わず背筋が伸びる。
(……何かあったか?)
軽く緊張しながら、ドアをノックして応接室に入る。
「失礼します」
部長は腕を組んだまま、少し重たい空気を纏っていた。
「……熊田くんの件で話がある」
「熊田……ですか?」
誠司の胸に、わずかなひっかかりが走る。
──課長に就任したとき、
熊田と笠井は自分のことのように喜んでくれたはずだった。
「誠司!!お前…本気で課長とかある!?すげぇな!」
「安心しろ、俺らが全力で支えるからな!」
そう言ってくれた──はずなのに。
(……最近、熊田が距離を置いてるような気がしてた)
どこか、視線を合わせないまま、飲み会の誘いにも乗ってこない。
部長の言葉が続く。
「彼を──大阪に転勤させることにした。来月から動く」
「……このタイミングで、ですか?」
誠司の声が少しだけ荒くなる。
「でも、熊田が抜けるのは……正直、痛いです。現場もまだ落ち着いてないですし、僕だって熊田に助けられたばかりで──」
その言葉に、部長は小さく息を吐いた。
「……わかってる。でもな、これは彼自身が出した異動願いだ」
「……え?」
「本人には言わないでくれ。まだ社内では誰にも伝えてない。
ただ、社長も了承済みだ。もう止められない」
誠司は、言葉を失った。
(……熊田が、自分から?)
あれほど近くにいたはずなのに──
(……気づいてさえいなかった)
「……わかりました」
それだけを返すのが、やっとだった。
部屋を出て、ドアが閉まる。
その瞬間、胸に広がったのは、想像以上に大きな喪失感だった。
(……何も言わずに、行くつもりだったのか)
(俺のことなんて、どうでもよかった……なんて、思いたくない)
──◇──
「……お疲れさま」
休憩スペースの隅で、そっと声をかける。
熊田は缶コーヒーを片手に、苦笑した。
「──その顔、部長から聞いたんだろ。大阪のこと」
誠司は黙って頷いた。
その目に、問いがある。
熊田は、缶をくるくると回しながら口を開いた。
「……最初はさ、逃げだと思った。お前が課長になるのは当然だと思ってたけど──それでも、めちゃくちゃ悔しかった」
いつもの冗談めいた言い方じゃない。
熊田が、まっすぐに話している。
「お前はちゃんと受け止めて、ちゃんと動く。白井の件も、ピヨちゃんのことも、ぜんぶお前がやってきた」
「俺はっていうと……口先だけで、何となくやり過ごしてきた」
指先が缶の縁をなぞる。
「でもな……見てるうちに、怖くなったんだよ。
俺もいつか、白井みたいになったらどうしようって」
ふっと視線を上げて、誠司を見た。
「だから、一回ちゃんと向き合ってみようと思った。
誰も俺のこと知らない場所で──
本気でやったら、俺がどこまでやれるのか。試してみたくなった」
それは、熊田なりの“決意”だった。
重くはない。でも、真剣な言葉だった。
誠司は、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
缶を持つ熊田の手が、ほんのわずかに震えている。
それが“冷たさ”のせいだけじゃないと、誠司にはわかっていた。
──◇──
翌日。
資料室でデータの確認をしていた誠司の背後から、声がかかった。
「誠司、ちょっといいか?」
振り返ると、笠井がいた。
手には缶コーヒーが2本。無言で片方を差し出してくる。
受け取ると、笠井は資料室のドアにもたれながら言った。
「……熊田から聞いたんだろ。大阪のこと」
誠司は静かに頷く。
笠井は缶を開け、一口飲んでから言った。
「俺、相談されてた。あいつさ、正面から“悔しい”って言ってきたよ」
「お前のこと、嫌いになったわけじゃない。むしろ逆。
だからこそ、ちゃんと一人でやってみたいって──そう言ってた」
言葉が静かに響く。
笠井の声は、熊田をよく知ってる人間のそれだった。
「止めなかった。止められなかった。……あいつのプライド、わかるから」
それから少しだけ、視線を落とす。
「でも──俺は残るよ」
そう言った声は、どこか笑っていた。
「熊田がいなくなったら、お前が抱える量、ハンパないだろ?
俺がその分、持つ。……そう部長に言っといた」
「そしたらさ、なんか感動されちまって。
“課長補佐ってポスト作るか”って話になってるらしい」
肩をすくめる。
「ま、棚ぼたみたいなもんだけどな。……でも、それでもいい。
俺はここに残る。お前の近くで、ちゃんと支える役」
「……無理すんなよ、誠司」
そして最後に、いつもの調子でぽつりと加えた。
「──どこまで行っても、俺らは“同期”だからな」
誠司は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じて、
視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「……ありがとう」
それ以上の言葉は出てこなかった。
缶の中のコーヒーは、いつの間にかぬるくなっていた。
──この日、誠司はようやく知った。
“仕事での孤独”に、味方がいるということを。
それは、「大丈夫」と言われるよりも、何倍も心強かった。
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