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第34話
カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
ぼんやりとした光の中、誠司は重たいまぶたを開ける。
どこか寝心地が違う――そう思って視線を巡らせると、目の前には見慣れた天井ではなく、リビングの照明が見えた。
「……ソファ?」
起き上がると、ブランケットがずれ落ちる。
美羽が掛けてくれたものだとすぐにわかった。
薄く、けれど確かに残る柔らかな香りに包まれている。
そのとき、キッチンから包丁の軽やかな音が聞こえてきた。
振り返ると、美羽がエプロン姿で朝の支度をしていた。
照明に照らされたその背中が、いつもより少しだけ頼もしく見えて、誠司は思わず口元を綻ばせる。
「……おはようございます、美羽さん。」
「あっ……! おはようございます、誠司さん。すみません、起こしてしまいましたか?」
「いや、大丈夫です。……ていうか、俺、昨日どうやって帰ってきたんでしたっけ?」
誠司が頭をかきながら尋ねると、美羽は少し笑って、手を止めた。
「熊田さんと笠井さんが……家まで運んでくださったんです。おふたりとも、心配してましたよ」
「……ああ、そうだったんですね……。ご迷惑、おかけしましたか?」
心配そうに問いかける誠司に、美羽はほんの少し肩を揺らして首を振った。
「いいえ。……ただ、ちょっとだけ驚いちゃって」
そして、小さく笑いながら、美羽はぽつりと呟く。
「……ピヨちゃんって」
「……えっ、まって。なんでそれ知ってるんですか!?」
誠司の素っ頓狂な声に、美羽はお弁当を包みながらくすくすと笑った。
「熊田さんが、ぽろっと……」
「……うわあ、マジか……言うなって言ったのに……」
誠司が頭を抱えるのを見て、美羽は少し嬉しそうに微笑んだ。
ピヨちゃん――そう呼ばれたことに、なぜか胸がじんと温かくなる。
ふと、誠司の顔つきが真剣になる。
「……昨日、熊田とかに……何かされませんでしたか?」
真剣なまなざしで問われて、美羽は驚いたように目を瞬かせる。
そしてすぐに、首を横に振った。
「いいえ。……何もされてません。心配しないでください」
その答えに、誠司はふっと息を吐いた。
内心、熊田の酔いっぷりを思い出していたが、今はそれよりも目の前の美羽の笑顔が何よりも安心させてくれた。
「朝ごはん、すぐに用意しますね。お弁当もできてます」
「……ありがとうございます。俺、先にシャワー浴びてきます」
そう言って洗面所に向かう誠司を見送りながら、美羽はお弁当包みをそっと撫でた。
ピヨちゃん――その言葉が、胸の中でふわりと跳ねる。
この名前が、これからの日常の小さな合図になるかもしれない。
そんな予感がして、美羽はこっそり笑みを浮かべた。
脱ぎ捨てられた上着。
リビングの隅に置かれたブランケット。
ほんの少し残るお酒のにおい。
昨夜のことを、思い出したくないようで、でも思い返してしまう。
熊田の不用意な一言も、
胸の奥でふいに疼いた、あの感情も──
(……バカみたい)
そう思いながら、お弁当包みをそっと撫でる。
(“ピヨちゃん”……)
そう呼ばれたことに、
くすぐったさと、少しの嬉しさが入り混じる。
“可愛い”と言われたことが嬉しかったわけじゃない。
誠司の口からその言葉が出たとき、
そこに自分の存在がちゃんと“肯定”されていた気がしたからだ。
(名前でもない、でも──誠司さんが呼んでくれる、もう一人の“わたし”)
それは、小さな呼び名に隠された、たったひとつの愛しさだった。
──シャワーの音が聞こえてきた。
それを聞いて、美羽はようやく小さく息を吐いた。
昨夜のざわめきが、じんわりと胸に残っている。
でも、それでも──
「……触れたいって、思うだけなら、いいよね」
誰にも届かない声で、もう一度だけつぶやいた。
想うことと、求めることは違う。
ただ、この朝の一瞬。
この“好き”が、どこにも向かわずに胸にあることだけは──許してほしかった。
誠司がシャワーを終えて戻ってくる前に、朝食の支度を整える。
焼いた鮭、だし巻き卵、昨日多めに煮ておいたひじき。
そして、今日のお弁当には、ほんの少しだけ新しいチャレンジも加えた。
(うさぎのりんご……どうかな。大人って、こういうの嫌がるかな)
ほんの少しだけ迷ったけれど、それでもそっと詰めた。
それは、“妻らしさ”の演技ではない。
ただ、“誠司さんが笑ってくれたらいい”──その想いだけだった。
やがてシャワーを終えた誠司がキッチンへ戻ってくる。
「……わ、いい匂いだ」
タオルで髪を拭きながらそう呟く声に、
美羽はふっと顔を上げ、いつもより少しだけ明るく笑った。
「焼き鮭です。焦げてないといいんですけど……」
「大丈夫ですよ。俺、焦げてるのも嫌いじゃないですから」
そんな返しに、ふたり同時にふっと笑う。
ほんの短い時間。
でも、確かに心がふれあった朝だった。
そして、美羽の胸の中にはひとつ、また小さな決意が芽生えていた。
(──もう少しだけ、この“嘘”の世界にいさせて)
それは、誰かを騙したいんじゃなくて、
“本当の自分”で愛されたかったという、叶わない願い。
だからこそ、美羽はそっと自分に言い聞かせる。
(……想うだけなら、きっと、罪じゃない)
この朝の静けさも、
心の奥のあたたかさも、
全部──今だけのもの。
けれど、それでも。
そうして迎えた朝が、“明日も会いたい”と思える日であればいい。
それだけが、美羽のささやかな祈りだった。
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