36 / 59

第35話

朝の会議が終わって人の流れが落ち着いたころ、誠司は意を決して、熊田と笠井のもとへ向かった。 2人ともいつものデスクにいて、それぞれキーボードを叩いたり、資料に目を通していたりする。 そこへ姿を見せると、気づいた熊田が口を開くよりも早く、誠司は深々と頭を下げた。 「昨日は、飲みすぎて迷惑かけた。申し訳ない。」 「お、おいおい、やめろって! 顔上げろよ誠司!」 熊田がわたわたと手を振るのに、笠井もやれやれとため息をついた。 「まあ、いいって言いたいところだけどさ。 ……熊田が奥さんに絡み出してからのあれは、肝が冷えたけどな。」 「なっ……笠井!お前、余計なこと言うなよ!」 焦った熊田が肘で笠井を小突く。 だが笠井はニヤリと笑って肩をすくめた。 「いや、でも熊田がピヨちゃん可愛い可愛い言ってさぁ。 あ、でも熊田の暴走は俺が止めたからな!安心しろよ!」 「や、だって、ピヨちゃん、ほんとちっさくて可愛かったから…!!  誠司、ほんと大事にしろよな!?」 「……分かってるよ。」 誠司が小さく呟くと、熊田が途端に顔を綻ばせて笑い出す。 「なぁ! 可愛かったろ!? 俺、あれ見て思ったもんよ……こんなんが家 「いやぁ〜でもいいよなぁ新婚さんはよ〜。やりたい放題なんだろ? 朝起きたら隣にあの子が寝てて、夜は……な? 羨ましいってばよ〜誠司ぃ」 ふざけたように肘でつついてくる熊田に、誠司は苦笑を返した。 「……やりたい放題なんて、そんなことない」 それだけ言って、また笑った。 でもその笑みは、どこか曖昧だった。 やりたい放題どころか、抱きしめることすらできていない――その言葉を、喉元で飲み込んだ。 それでも熊田は嬉しそうに続ける。 「ま、何にせよ。ピヨちゃんが幸せそうだったなら何よりだよ。」 「誠司の幸せも願ってやれよ」とぼやく笠井の声を背に、誠司はほんの少しだけ目を伏せた。 “幸せそうだった”―― その言葉が、今の自分の在り方を否応なく突きつけてくる。 触れることすらできない距離に、美羽の笑顔だけがぽつりと浮かぶ。 けれど、それでも守りたいと思えるほどに、大切な存在だと誓える。 だからこそ、今はまだ、この曖昧な笑みでしか応えることができなかった。 最近、仕事の忙しさが加速していた。 誠司は帰宅時間がますます遅くなり、日付が変わってからようやく玄関の扉が開く──そんな日が続いていた。 けれど、美羽はその時間まで起きて待っていた。 最初は不安と寂しさから、やがてそれが自然になっていた。 「おかえりなさい、誠司さん」 「……ただいま。起きてたんですね」 疲れているだろう誠司が、それでもテーブルに着くのを見て、美羽は用意していた夕食を温め直す。 真夜中、ぽつりぽつりと話す会話。黙ってご飯を食べる姿を見つめながら、美羽はふと思った。 ──こうして、待っていて、迎えること。 それがいつの間にか自分の幸せになっていた。 ある晩。誠司がご飯を食べ終えたタイミングで、ふと口を開いた。 「そういえば……今度の休み、ドーナツ屋さん、いくつかピックアップしてみました」 「……え?」 思わず聞き返す美羽に、誠司は笑う。 「甘いものの話、したでしょう?どこに行きたいか、美羽さんに決めてもらえたらって思って」 美羽の胸がきゅう、と鳴った。 「せっかくだし、初めての、ちゃんとしたデートにしましょう」 “初めてのちゃんとしたデート” その言葉に、美羽の中で何かがはじけた。 嬉しさと緊張と、抑えきれない高鳴り。 「……はい。楽しみです」 そう答えながら、胸の奥でこそっと呟いた。 (恋って…こんな風に進んでいくんだ──) 週末の朝、部屋に差し込む光に背を押されるように、美羽はそっと目を開けた。 今日は、誠司さんと――初めての、ちゃんとしたデート。 布団の中で一度、きゅっと小さく拳を握る。嬉しくて、でも少し緊張していて。 何を着て行こう。何からしよう。 服を選ぶためにクローゼットを開ける。 しかし……並んでいる服の少なさに、美羽は小さく唇を噛んだ。 「……あんまり、ちゃんとした服って、持ってないんだよね……」 ここに来てから買ってもらったものも、最小限だ。 どれも少し子どもっぽいか、逆に無難で味気ないものばかりで、胸を張って“デートの服”とは言えない。 それでも、手に取った一枚―― クリーム色の、少し丈が長めのワンピース。 それは、誠司にもらったペンダントをつけた時、ふと鏡に映った自分が「少し、大人っぽく見えた」服。 「……これにしようかな」 胸元に手を当て、そっと深呼吸。 あのペンダントが、少しでも映えるように。 誠司さんの隣にいて、恥ずかしくないように。 「髪、どうしよう……!」 服をベッドに広げると、美羽は慌てて洗面台の鏡の前へ。 ブラシで丁寧に髪をとかして、鏡とにらめっこしながら、慣れない手つきでサイドを結んでみたり、少し後ろでまとめてみたり。 ピンを留めては外し、分け目を変えてみては、首をかしげる。 「……難しいなぁ。でも、いつもよりおしゃれしたいし……可愛くなりたいな」 声に出して、思わず自分で恥ずかしくなる。 だけど、それが本音だった。 この髪型で、ペンダントが揺れて、誠司が気づいてくれたら。 少しでも、綺麗だなって思ってくれたら―― そんなことを考えて、また鏡の前に向き直る。 ふんわりと結んだ髪に、小さなヘアクリップを添えて、にっこりと微笑んでみる。 「うん……これで、行こう」 嬉しさと不安と、胸いっぱいの気持ちを抱えて。 大好きな人と歩くための、精一杯のおめかしだった。

ともだちにシェアしよう!