37 / 59
第36話
待ち合わせの時間が近づく頃、誠司はエントランスに姿を見せた。
いつもより少しだけ緩んだ表情。とはいえ、ジャケットにシャツ、磨かれたレザーシューズと、全体には“よそ行き”のきちんと感が漂っていた。
玄関へ向かう足取りが自然と早まる。
そして──そこに、そわそわと立つ美羽の姿が見えた。
「──……」
一瞬、言葉を失う。
キッチンでエプロン姿の美羽でも、ソファでうとうとする夜の美羽でもない。
ふんわりと髪を結い、優しいクリーム色のワンピース。胸元には揺れるペンダント。
春の朝の光のように柔らかく、淡い雰囲気に包まれていた。
「……美羽さん?」
名前を呼ぶ声が、わずかに掠れていた。
美羽ははっとして、足元を気にするように小さく一歩下がる。
「え、へへ……似合ってますか……?」
誠司は、まるで宝石を選ぶようにじっと見つめた。
「……すごく、似合ってます」
そして、口元に手を添えながら目線を下げる。
ワンピース、髪型、ペンダント――丁寧に一つずつ。
「……その服も、髪も、ペンダントも。全部、すごく……可愛いです」
不器用な人が、言葉を探しながら懸命に褒めている。
でも、美羽には分かった。
その言葉がどれだけ真っ直ぐで、誠司なりの“精一杯”なのかが。
「ありがとうございます……」
頬を染め、小さく笑う美羽に、誠司は照れくさそうに頷く。
差し出された手をそっと取りながら、言った。
「じゃあ、行きましょうか。初めての──ちゃんとした、デートですね」
美羽は一層顔を赤くして、こくんと頷いた。
⸻
休日の朝。
街は平日よりも少しだけのんびりしていて、カフェやパン屋には早くも行列ができ始めている。
今日は、話題のドーナツ専門店で待ち合わせだった。
でも、今回は家の中ではなく、“外”で。
名前のついた特別な時間──「デート」だった。
「美羽さん、並んでる間、寒くないですか?」
「ううん、大丈夫。……それより、すごい人気ですね」
小さなバッグをぎゅっと握る。
緊張していた。風の音も、人の気配も、いつもより大きく感じる。
何を話せばいいのか分からず、笑顔もどこかぎこちない。
列に並びながらも、自然と2人の間に少し距離が空いていた。
でも、ふと。
「……あっ」
人波の中、肩がぶつかりそうになったその瞬間。
誠司がとっさに手を伸ばし、美羽の肩を引き寄せる。
胸の前にかばうようにして立った。
「すみません、大丈夫ですか?」
「……っ、はい……」
胸の鼓動がうるさいほど響く。
誠司の顔も、耳まで赤くなっていた。
困ったように目を伏せてから、彼は言った。
「……人混みだと危ないので。よければ、手を……つないでもいいですか?」
美羽は、数秒だけ動けなかった。
けれど──
「……はい」
小さく差し出した手を、誠司の手がやさしく包む。
そっと確かめるような、ぬくもりだった。
⸻
ドーナツを選び、カフェスペースで向かい合って食べる。
「選べなくて」と言った美羽に、「全部買って、半分こしましょう」と言ったのは誠司だった。
その言葉通り、甘くて優しい味が、テーブルを彩った。
帰り道。
人通りが増えるにつれ、美羽は少しだけ誠司の後ろを歩くようになる。
そのとき──
「こっち」
誠司が立ち止まり、そっと腕を差し出した。
「……腕、組んでもらってもいいですか? 離れないように」
命令じゃなかった。お願いのような声。
美羽は、ぎゅっと唇を結んでから、そっと腕に手を回した。
スーツ越しに伝わる体温と、しっかりとした筋肉。
「……男の人だな」
そう思った。
でも、不思議と、怖くはなかった。
⸻
その日、美羽ははじめて、“恋人”という言葉の意味を、肌で知った。
そして誠司もまた、自分の隣に“妻”がいるという事実を、静かに実感していた。
夕暮れが近づき、街がオレンジ色に染まる。
並んで歩く2人の影が、長く伸びていた。
「今日は……ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。楽しかったです」
礼を交わしても、手はまだつないだまま。
その姿は、行きよりずっと自然な“夫婦”に見えた。
信号待ちの横断歩道で、ふと誠司が言った。
「そういえば──」
「……?」
「来月、会社の設立記念パーティがあるんです。うちの会社、創業記念日はけっこう大きくて、役職者は全員参加。笠井も……課長補佐で出席します」
「……そうなんですね」
誠司は歩き出さず、改めて美羽の方を向いた。
「それで実は──配偶者の同伴も……推奨されていて」
「……え?」
「強制じゃありません。でも、同僚に家族を紹介する場でもあるので。
……よければ、ご一緒していただけませんか?」
美羽の瞳が少しだけ揺れる。
「配偶者として」──それは当然の立場なのに、まだどこか現実味を持てない自分がいた。
「えっと……私、そういう場所って初めてで……」
「大丈夫ですよ。あまり堅苦しくないですし、ドレスも必要なら一緒に選びに行けたらと思ってます」
誠司の声は、強くもなく甘すぎもせず、ただまっすぐだった。
「俺の隣に、美羽さんがいてくれたら嬉しいです」
その一言に、美羽はそっと手を握り返した。
「……行ってみたいです。あんまり自信はないですけど」
「ありがとうございます」
安堵の笑みが、誠司の口元に浮かんだ。
美羽はその横顔を見ながら、思う。
“行きたい”よりも、“一緒にいたい”が先にあったことを。
⸻
数日後。
2人は少しフォーマルな雰囲気のドレスショップを訪れた。
店内には、淡い色のドレスやバッグ、小物が並び、優しい照明が空間を包んでいる。
「……こんなところ、自分が来ていいのかなって思っちゃいます」
「大丈夫ですよ。むしろ、あなたが来るのを待ってた服たちじゃないですか」
さらりとした誠司の言葉に、美羽の耳がふわりと赤くなる。
でも──
「胸が……なくて。だから、胸元が広く開いたドレスはちょっと……」
視線が落ち着かないまま、美羽は不安げにマネキンを見つめる。
そこへ、ふいに優しい声が差し込んだ。
「ご来店ありがとうございます。もしお探しのスタイルがあれば、お手伝いしますね」
声をかけてきたのは、上品な雰囲気の店員だった。
美羽の戸惑いを察したように、柔らかく続ける。
「お身体のラインやご希望に合わせて、いくつかご提案できますよ。
たとえば──胸元が控えめで、ウエストを絞ったフィット&フレアなど。
レースや刺繍の視線移動も効果的です」
「……!」
あまりに自然に“選択肢”を示され、美羽は思わず目を見張る。
「どんなテイストがお好きですか? 可愛い系?それとも、上品なもの?」
「えっと……よく分からなくて。でも、誠司さんの隣に立って、恥ずかしくないものがいいなって……」
「まあ……素敵な奥さまですね」
店員がちらりと誠司に目をやる。
「お連れさまは、どう思われますか?」
誠司は少し美羽を見つめてから、穏やかに答える。
「落ち着いた色で、控えめだけど綺麗なシルエット……“彼女らしさ”が出るものを、見てみたいです」
店員は頷き、候補を数点持ってきてくれることに。
並んだのは、淡いグレーやスモーキーピンク、ミントグリーン。
どれも派手すぎず、でも美羽の透明感を引き立てそうなデザインだった。
「……これ、かわいい……」
手に取ったミントグリーンのドレスは、胸元も控えめで、ウエストには細いリボン。
「似合うかも」と、美羽がはじめて自分に言えた一着だった。
「試着、してみますか?」
頷いて試着室へ向かう美羽を見送りながら、誠司の視線はふと別のドレスに向いていた。
――それは、美羽が自分では選ばなさそうな、でも、きっと似合うと信じている一着だった。
(あれも……着せてあげたいな)
ふとこぼれた微笑に、彼の愛情がにじんでいた。
ともだちにシェアしよう!

