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第36話

待ち合わせの時間が近づく頃、誠司はエントランスに姿を見せた。 いつもより少しだけ緩んだ表情。とはいえ、ジャケットにシャツ、磨かれたレザーシューズと、全体には“よそ行き”のきちんと感が漂っていた。 玄関へ向かう足取りが自然と早まる。 そして──そこに、そわそわと立つ美羽の姿が見えた。 「──……」 一瞬、言葉を失う。 キッチンでエプロン姿の美羽でも、ソファでうとうとする夜の美羽でもない。 ふんわりと髪を結い、優しいクリーム色のワンピース。胸元には揺れるペンダント。 春の朝の光のように柔らかく、淡い雰囲気に包まれていた。 「……美羽さん?」 名前を呼ぶ声が、わずかに掠れていた。 美羽ははっとして、足元を気にするように小さく一歩下がる。 「え、へへ……似合ってますか……?」 誠司は、まるで宝石を選ぶようにじっと見つめた。 「……すごく、似合ってます」 そして、口元に手を添えながら目線を下げる。 ワンピース、髪型、ペンダント――丁寧に一つずつ。 「……その服も、髪も、ペンダントも。全部、すごく……可愛いです」 不器用な人が、言葉を探しながら懸命に褒めている。 でも、美羽には分かった。 その言葉がどれだけ真っ直ぐで、誠司なりの“精一杯”なのかが。 「ありがとうございます……」 頬を染め、小さく笑う美羽に、誠司は照れくさそうに頷く。 差し出された手をそっと取りながら、言った。 「じゃあ、行きましょうか。初めての──ちゃんとした、デートですね」 美羽は一層顔を赤くして、こくんと頷いた。 ⸻ 休日の朝。 街は平日よりも少しだけのんびりしていて、カフェやパン屋には早くも行列ができ始めている。 今日は、話題のドーナツ専門店で待ち合わせだった。 でも、今回は家の中ではなく、“外”で。 名前のついた特別な時間──「デート」だった。 「美羽さん、並んでる間、寒くないですか?」 「ううん、大丈夫。……それより、すごい人気ですね」 小さなバッグをぎゅっと握る。 緊張していた。風の音も、人の気配も、いつもより大きく感じる。 何を話せばいいのか分からず、笑顔もどこかぎこちない。 列に並びながらも、自然と2人の間に少し距離が空いていた。 でも、ふと。 「……あっ」 人波の中、肩がぶつかりそうになったその瞬間。 誠司がとっさに手を伸ばし、美羽の肩を引き寄せる。 胸の前にかばうようにして立った。 「すみません、大丈夫ですか?」 「……っ、はい……」 胸の鼓動がうるさいほど響く。 誠司の顔も、耳まで赤くなっていた。 困ったように目を伏せてから、彼は言った。 「……人混みだと危ないので。よければ、手を……つないでもいいですか?」 美羽は、数秒だけ動けなかった。 けれど── 「……はい」 小さく差し出した手を、誠司の手がやさしく包む。 そっと確かめるような、ぬくもりだった。 ⸻ ドーナツを選び、カフェスペースで向かい合って食べる。 「選べなくて」と言った美羽に、「全部買って、半分こしましょう」と言ったのは誠司だった。 その言葉通り、甘くて優しい味が、テーブルを彩った。 帰り道。 人通りが増えるにつれ、美羽は少しだけ誠司の後ろを歩くようになる。 そのとき── 「こっち」 誠司が立ち止まり、そっと腕を差し出した。 「……腕、組んでもらってもいいですか? 離れないように」 命令じゃなかった。お願いのような声。 美羽は、ぎゅっと唇を結んでから、そっと腕に手を回した。 スーツ越しに伝わる体温と、しっかりとした筋肉。 「……男の人だな」 そう思った。 でも、不思議と、怖くはなかった。 ⸻ その日、美羽ははじめて、“恋人”という言葉の意味を、肌で知った。 そして誠司もまた、自分の隣に“妻”がいるという事実を、静かに実感していた。 夕暮れが近づき、街がオレンジ色に染まる。 並んで歩く2人の影が、長く伸びていた。 「今日は……ありがとうございました」 「いえ、こちらこそ。楽しかったです」 礼を交わしても、手はまだつないだまま。 その姿は、行きよりずっと自然な“夫婦”に見えた。 信号待ちの横断歩道で、ふと誠司が言った。 「そういえば──」 「……?」 「来月、会社の設立記念パーティがあるんです。うちの会社、創業記念日はけっこう大きくて、役職者は全員参加。笠井も……課長補佐で出席します」 「……そうなんですね」 誠司は歩き出さず、改めて美羽の方を向いた。 「それで実は──配偶者の同伴も……推奨されていて」 「……え?」 「強制じゃありません。でも、同僚に家族を紹介する場でもあるので。 ……よければ、ご一緒していただけませんか?」 美羽の瞳が少しだけ揺れる。 「配偶者として」──それは当然の立場なのに、まだどこか現実味を持てない自分がいた。 「えっと……私、そういう場所って初めてで……」 「大丈夫ですよ。あまり堅苦しくないですし、ドレスも必要なら一緒に選びに行けたらと思ってます」 誠司の声は、強くもなく甘すぎもせず、ただまっすぐだった。 「俺の隣に、美羽さんがいてくれたら嬉しいです」 その一言に、美羽はそっと手を握り返した。 「……行ってみたいです。あんまり自信はないですけど」 「ありがとうございます」 安堵の笑みが、誠司の口元に浮かんだ。 美羽はその横顔を見ながら、思う。 “行きたい”よりも、“一緒にいたい”が先にあったことを。 ⸻ 数日後。 2人は少しフォーマルな雰囲気のドレスショップを訪れた。 店内には、淡い色のドレスやバッグ、小物が並び、優しい照明が空間を包んでいる。 「……こんなところ、自分が来ていいのかなって思っちゃいます」 「大丈夫ですよ。むしろ、あなたが来るのを待ってた服たちじゃないですか」 さらりとした誠司の言葉に、美羽の耳がふわりと赤くなる。 でも── 「胸が……なくて。だから、胸元が広く開いたドレスはちょっと……」 視線が落ち着かないまま、美羽は不安げにマネキンを見つめる。 そこへ、ふいに優しい声が差し込んだ。 「ご来店ありがとうございます。もしお探しのスタイルがあれば、お手伝いしますね」 声をかけてきたのは、上品な雰囲気の店員だった。 美羽の戸惑いを察したように、柔らかく続ける。 「お身体のラインやご希望に合わせて、いくつかご提案できますよ。 たとえば──胸元が控えめで、ウエストを絞ったフィット&フレアなど。 レースや刺繍の視線移動も効果的です」 「……!」 あまりに自然に“選択肢”を示され、美羽は思わず目を見張る。 「どんなテイストがお好きですか? 可愛い系?それとも、上品なもの?」 「えっと……よく分からなくて。でも、誠司さんの隣に立って、恥ずかしくないものがいいなって……」 「まあ……素敵な奥さまですね」 店員がちらりと誠司に目をやる。 「お連れさまは、どう思われますか?」 誠司は少し美羽を見つめてから、穏やかに答える。 「落ち着いた色で、控えめだけど綺麗なシルエット……“彼女らしさ”が出るものを、見てみたいです」 店員は頷き、候補を数点持ってきてくれることに。 並んだのは、淡いグレーやスモーキーピンク、ミントグリーン。 どれも派手すぎず、でも美羽の透明感を引き立てそうなデザインだった。 「……これ、かわいい……」 手に取ったミントグリーンのドレスは、胸元も控えめで、ウエストには細いリボン。 「似合うかも」と、美羽がはじめて自分に言えた一着だった。 「試着、してみますか?」 頷いて試着室へ向かう美羽を見送りながら、誠司の視線はふと別のドレスに向いていた。 ――それは、美羽が自分では選ばなさそうな、でも、きっと似合うと信じている一着だった。 (あれも……着せてあげたいな) ふとこぼれた微笑に、彼の愛情がにじんでいた。

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