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第40話
食事の支度を終え、二人で並んで食卓を囲む夜。
誠司はふと、笠井から聞いてきたばかりの情報を口にする。
「パーティの当日、会場のホテルに…ヘアセットとメイクのサービスがあるらしい。笠井が教えてくれたんです。女性同伴の参加者向けに、プロを呼んでるんだって」
フォークを持つ手を止め、美羽は一瞬目を見開いたあと、照れたように小さく頷いた。
「……お願い、してもいいですか?」
「もちろん。予約、入れておくよ」
言った誠司の声はあくまで穏やかで、当然のように包容力に満ちていたけれど、美羽の内心は少しだけざわついていた。
――こんなふうに、頼ってしまっていいのかな。
でも、いつもよりきちんとした姿で誠司の隣に立ちたい。
そう思えたのは、きっと初めてだった。
「……私、化粧も上手じゃないし……普段、あんまりしないし。だから…少しでも、ちゃんとしたくて」
ぽつりと漏らした声に、誠司は「うん」と優しく頷きながら、ナイフとフォークをそっと置いた。
「美羽さんは、いつもそのままで十分綺麗だけど。今日は少しだけ、特別な“おめかし”ってことでしょ? 楽しみにしてるよ」
そう言って微笑む誠司の言葉に、美羽は思わず頬を染めた。
「当日、予約の時間の関係で……わたし、先に出ることになりそうです。あまり遅れないように支度しないといけないみたいで」
「ああ、それなら大丈夫。俺も少し早めに出るけど、会場でちゃんと迎えるから。……楽しみにしてる」
ふたりは静かに顔を見合わせて、ささやかに微笑み合う。
小さな「当日」への期待が、食卓の空気をふんわりと和らげていく。
⸻
日付が変わる頃。
ふと、誠司はカレンダーの隅に目をやりながら、小さく息を吐いた。
――熊田の大阪転勤も、いよいよ目前だ。
後任への引き継ぎも進み、ここ数日は書類に追われながらも、冗談めかして文句を言っていた熊田の姿が思い出される。
(……いなくなる実感は、まだあまりないな)
そう思いながらも、寂しさの芽は、確実に胸の奥で静かに息をしていた。
「これで全部だなー。あとはよろしく頼むぜ、若者くん」
そう言って、熊田は引き継ぎ相手の若手社員にどっしりとした資料ファイルを手渡すと、軽く背中を叩いた。
「はい! ……熊田さん、ありがとうございました!」
「うん、がんばれよ」
職場の空気にはどこか寂しさと期待が入り混じっていた。
そんな中、熊田は最後に誠司のデスクに立ち寄った。
「なぁ、せーちゃん。これ、今まで使ってた俺のマグカップ。お前、引き出しでインスタント飲んでんだろ? 使えよ」
そう言って渡されたのは、熊田が長年使っていた「世界一の上司」と書かれた、明らかに誰かからの冗談の贈り物らしきマグカップだった。
「それ……お前の宝物じゃなかったのか?」
「だってよ、俺が大阪行ったら、使い道ないだろ? それに……なんか、離れたときに少しでもお前のそばにいたいって思ってさ。キモかったか?」
「……いや。ありがとう」
それ以上、言葉にできなかった。
熊田は誠司の肩を力強く叩き、にっと笑った。
「ピヨちゃんのこと、大事にしろよ。お前にはもったいねぇくらい、いい子だ」
「……わかってるよ」
「じゃ、俺は俺で、大阪で頑張るわ。……たまには、連絡してやる」
背中を向けて去っていく熊田の姿を、誠司はしばらく見送っていた。
マグカップをそっと持ち上げて、胸の奥があたたかくなるのを感じながら。
⸻
パーティ当日の朝
窓から差し込むやわらかな朝日が、リビングの床に薄く伸びていた。
美羽はその光の中で、朝食の準備をしていた。
――今日は、少しだけ特別な日。
誠司との「初めての社交の場」へ並んで立つ、そんな一日。
「……今日、何も失敗しませんように……」
小さくつぶやきながら、焼いたパンをお皿に並べ、サラダの盛り付けを整える。
手は普段通りに動いているのに、心はそわそわと落ち着かなかった。
やがて、シャワーを終えた誠司がリビングに現れる。
「おはよう、美羽さん。……いい匂い」
「おはようございます。もう少しで出来ますから、座っててください」
そう言って笑いかけた美羽の表情には、ほんのり緊張が滲んでいた。
誠司もそれに気づいて、ふっと笑った。
「大丈夫。きっと、素敵な日になりますよ」
美羽は頷いたけれど、やはり心は落ち着かないまま。
でも、誠司がいてくれることが、どこか安心にも繋がっていた。
──このあと、自分は少し早めに家を出て、ヘアメイクの予約に向かう。
誠司と一緒に出られないのは少し寂しいけれど、そのぶん、会場で再会するその瞬間が、きっと何より特別なものになる。
美羽はそう信じていた。
ホテルの一室──パーティ前の支度をするために用意されたフロアは、まるで映画のワンシーンのようだった。
鏡の前には艶やかなドレスを身に纏い、完璧なメイクとヘアセットを終えた女性たちが、余裕の笑みを浮かべて談笑している。
「○○社の奥様ね。いつ見てもセンスがいいわ」
「うちの主人、課長に昇進したのよ。大変だったけど報われたわ」
漂う香水の匂いと、涼やかに笑う声。
自分より少し年上に見える女性たちは皆、堂々としていて、まるで別の世界の人のように感じられた。
美羽は、鏡の前の椅子にそっと腰掛けながら、自分の姿を見つめた。
白い肌に施された丁寧なベースメイク。
美容師さんに巻いてもらった髪は、控えめながらも華やかで、誠司が選んでくれたペンダントがそっと胸元で揺れている。
「……でも……」
声には出さなかった。
何もかもが“演じている”ように思えて、鏡の中の自分が、どこか他人のようだった。
そのとき──
「……緊張、してる?」
鏡越しにふと目が合ったのは、ヘアメイクを担当してくれていた美容師の女性だった。
落ち着いた口調と、あたたかな笑顔。
「初めてのパーティ……です。皆さん、すごく綺麗で……私なんかが来ていい場所なのかなって……」
小さな声でこぼしたその言葉に、彼女は一度手を止めて、美羽の肩に優しくタオルをかけ直してくれた。
「綺麗な人ってね、自信がある人のことを言うのよ。堂々としているから、輝いて見えるの」
「あなたも、ちゃんと綺麗よ。すごく丁寧におしゃれしてる。大切にされてる人なんだなって、見てすぐ分かった」
その言葉に、美羽の胸の奥がじんわりと熱くなる。
ペンダントを指でそっと触れる。あの日、誠司が選んでくれたもの。
「それにね、誰かの隣に立ちたいって思って頑張ってきた気持ちって、きっと滲み出るものよ。あなた、いいお顔してる」
小さな声で「ありがとうございます」と呟いた美羽の瞳に、ほんの少し、光が戻った。
「じゃあ、最後にリップ塗ろっか。今日は少しだけ、大人っぽくしてみようか」
「……はい」
鏡の中の自分が、少しずつ“自分らしく”整えられていく。
不安はまだ消えてはいないけれど、それでも──堂々と歩きたいと思える自分が、少しだけそこにいた。
——約束の時間、ロビーの端。誠司は、腕時計の針を確認してから、深く息を吐いた。
「……大丈夫、大丈夫……普通に会うだけだ、いつも通りに……」
けれど落ち着かない。
ネクタイを締め直し、ジャケットの裾を整え、無意味に数歩歩いて戻る。
何度も鏡で確認してきたはずの髪型が、なぜか急に気になって額に手を当てる。
(……緊張しすぎだろ、俺……)
今日の主役は自分じゃない。
ただの会社の設立記念パーティ。それだけのはずだった。
だけど──
「お待たせしました……」
聞き慣れた声が、背後からそっと降ってきた。
振り返った瞬間、誠司は──一瞬、息を飲んだ。
白い肌に、ふわりと巻かれた髪。
繊細なレースの袖に包まれた肩先。
胸元には、彼が選んだあのペンダントがきらりと光を反射していた。
足元まで丁寧に整えられたドレス姿の美羽は、まるで別人のようで……だけど、やっぱり美羽で。
「…………」
言葉が、出ない。
「……あの、変じゃ、ない……ですか?」
おそるおそる問う美羽に、ようやく口を動かすことができた。
「……綺麗だ」
それだけが、ぽつりとこぼれた。
緊張を誤魔化すように咳払いをして、誠司は手を差し出す。
「その、改めて……一緒に来てくれてありがとう、美羽さん」
「あ、はい……こちらこそ」
小さく手を重ねた瞬間、誠司の指先がわずかに震えていることに美羽は気づいた。
(あれ……? もしかして、誠司さんも緊張してる……?)
普段、会社でも家でも落ち着いた表情を崩さない彼が、今はどこかぎこちない。
「……変じゃないどころか、綺麗すぎて、どうしていいか分からないんだよ。俺……」
ぽつりと漏れたその声に、美羽の胸がきゅっと締めつけられた。
「……じゃあ、お揃いですね。私も、緊張して……どうしていいか分かりません」
「……そうか」
ほんの少し微笑んだ誠司の手に、力がこもった。
「じゃあ、今日は一緒に……頑張ろう」
「……はい」
手を繋いだまま、2人はゆっくりとパーティ会場の扉へと向かっていく。
緊張を抱えたまま、それでも隣にいる相手が“自分を選んでくれた”ことに、静かに胸を熱くしながら。
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