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第43話
パーティ会場のざわめきが、まるで波のように遠のいていく。
美羽の耳には、誠司の胸の鼓動だけが届いていた。
あの女の言葉が残した傷跡――けれど、それを上回るものが今、美羽の中に確かに育っていた。
(……そうだ。ずっと、不思議だったんだ。)
給料も、容姿も申し分ない。
礼儀正しくて、穏やかで、誠実で。
一緒に暮らして、毎日少しずつ知っていくたびに、美羽の中には常に疑問があった。
(どうしてこんなに素敵な人が、結婚していなかったんだろう……)
年齢的にも、これまで何度か結婚の話があったっておかしくない。
なのに、それが一度も成就してこなかった。
(……きっと、それが理由だったんだ。)
“子どもが作れない体”だと分かったとき、
この人はきっと、誰かと幸せになること自体を諦めてしまったんだ。
自分なんて――
そんな気持ちを、心の奥に押し込めて。
(……ばかだな。)
心の中で、小さく呟いた。
子どもができないってことが、
“結婚をしてはいけない理由”なんかになるわけがない。
ましてや――
(僕だって、子どもなんて……できるわけないんだから。)
そりゃ男なんだから当たり前だ、と。
笑いたくなるような、でも涙が滲むような気持ちだった。
だからこそ──
「……そんなことで、嫌いになったりしません。」
まっすぐに、誠司を見上げて、美羽は言った。
「子どもができないことも、結婚を諦めてたことも……
そんなの、全部、誠司さんが誠司さんであることを否定する理由にはなりません。」
その目に、誠司が戸惑いと、哀しみと、驚きと、すべてを滲ませる。
でも――美羽はもう、逃げない。
「誠司さんを、選んでくれなくて――」
ふと、美羽は横目で、騒ぎのきっかけとなった元婚約者の女を見やった。
その人は、悔しそうに唇を噛み、まだこちらを睨みつけている。
でも、もう、何も怖くなかった。
「……本当に、ありがとう。」
その言葉は、皮肉でも憐れみでもなかった。
ただ心からの、感謝だった。
「あなたが手放してくれたから──私は誠司さんに出会えた。」
誠司が、はっと息を呑む音がした。
その手が、微かに震えたのを美羽は感じた。
誠司は、何かを言おうとしたけれど、言葉が出てこないようだった。
美羽はもう一度、彼の瞳を見つめて──小さく、でも確かに微笑んだ。
「私は……それでも、誠司さんが、好きです。」
声が震えなかったことが、自分でも少し不思議だった。
それほどに──心は決まっていた。
会場内は一瞬、静まり返っていた。
美羽の言葉が空気を切るように響き、その余韻に、誰もが息を呑んだ。
そして──
パチン、と誰かが手を叩いた音を皮切りに、会場中に拍手が広がっていく。
控えめに、けれど温かく、確かに──美羽の勇気と真っ直ぐさに打たれた拍手だった。
騒ぎを起こした女は、スタッフに両腕を取られてそのまま出口へと引きずられるように連れていかれる。
名残惜しそうに何かを叫んでいたが、それすらも、会場のざわめきに飲み込まれていった。
その中で。
「……美羽さん」
誠司の震える声が、美羽の耳に届く。
振り向いた瞬間、彼の腕がそっと、美羽の肩を抱き寄せた。
苦しげに、でも確かに。
「ありがとう……ありがとう」
ただそれだけを繰り返すように、彼は美羽を静かに抱きしめた。
心の奥に張り詰めていた何かがほどけるような、そんな感覚だった。
やがて、スタッフに案内されて、二人は会場の外にあるテラス席へと案内された。
外の空気は涼しく、少しだけ混乱の残る空気を洗い流してくれるようだった。
誰かが気を遣ってくれたのか、隅の席はふたりきりだった。
小さな丸テーブルに、まだ温かい紅茶と甘い焼き菓子が運ばれてくる。
誠司はしばらく何も言わず、美羽の横に座って空を仰いでいた。
「……俺は」
ようやく、ぽつりと語り出したその声は、かすかに震えていた。
「子どもが……できない体なんです。
ちゃんとした診断を受けて……もう、どうしようもないって」
美羽は頷きながら、そっと耳を傾ける。
「それが分かってから、許嫁だった人に婚約を破棄されて……。
理解はしてもらえなかった。当然です。今のこの時代。
子供が望めない結婚なんて、誰にも祝福されないから。」
微かに握られた拳。
「そこからずっと……誰とも、添い遂げることなんてできないって、思い込んでました」
まっすぐで誠実な人だからこそ、自分の弱さも罪のように抱えてきたのだと、美羽には分かった。
「でも、母の介護の問題が現実になって……施設に入れるには条件が必要で。結婚……という選択肢が、どうしても必要になってしまった」
「……それで、結婚マッチング制度を?」
誠司はこくりと頷いた。
「……申し訳なかったんです、最初から。事情を話せば断られるかもしれないと思って……打ち明けられなくて。でも、毎日一緒に過ごすうちに、どんどん……怖くなっていったんです」
「嫌われたくなくて?」
「……はい。たとえ最初は偽りでも、あなたとの日々が……かけがえのないものになっていって……」
そう話す誠司を、美羽はまっすぐに見つめながら、心の奥で強く思った。
(やっぱり──私には、勿体なさすぎる人だ)
こんなに誠実で、まっすぐで、自分のことより他人の気持ちを大事にする人。
こんな素敵な人が、誰とも添い遂げられないはずがない。
きっと、こんな“偽物“じゃなくて、“本物“に愛されるべき人だ。
だけど、そんな人が、自分を必要としてくれていた――
それだけで、胸がいっぱいになった。
だからこそ、美羽は静かに、そっと視線を伏せた。
(あと少し。あと少しだけ、誠司さんの“妻”でいさせてください)
(3ヶ月が経ったら、そっと――あなたの前から、いなくなります)
“さようなら”を、言うそのときまで。
たとえこの手に触れられなくても、心だけは──ずっと、あなたの隣に。
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