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第44話

夜風が少し冷たくなってきた頃、ふたりの間にしばしの静寂が訪れていた。 テラスの隅、小さな丸テーブルを挟んで向かい合うように座る美羽と誠司。 もう、どちらからも言葉はなかった。 けれど、その沈黙が居心地の悪いものではなく、互いの思いを静かに確かめ合うような、温かさを孕んでいた。 ふと、美羽が手元のティーカップを戻そうとしたそのとき。 テーブルの上──そっと置かれた誠司の右手の甲に、美羽の指先がふれてしまう。 思わず「あっ」と息を呑んだ美羽の視線が、触れてしまった指先に向く。 けれど──誠司は手を引かなかった。 どころか、優しく、美羽の指を包み込むように、指先を重ねてくる。 心臓が跳ねた。 (触れられている……) 鼓動が、苦しいくらい速くなるのを感じながらも、美羽はその手を拒めなかった。 怖いとか、緊張とか、そういうものじゃない。 ただただ、今、目の前の人に触れてもらえたことが──嬉しくて、温かくて。 そっと、指と指が絡む。 見上げれば、誠司の視線がこちらを見ていた。 吸い込まれそうなほど深く、優しく、切ないほど真剣な目。 美羽も、瞼を開けて、その目をまっすぐに見返す。 そして。 どちらからともなく、ほんの少し、身体が傾いた。 テーブルを挟んだ距離が、ゆっくり、ゆっくりと縮まっていく。 鼻先が触れるか触れないかという距離で、互いの息がふわりと絡んだ。 (このまま……) 何か言葉にしようとする前に、誠司の瞳がそっと閉じられた。 それに倣うように、美羽も瞼を閉じる── そして、唇が、触れた。 とても優しく、とても慎重に。 まるで、何かを壊さないようにそっと押し当てられるような、そんなファーストキスだった。 息を呑む音さえ聞こえるほどの静けさの中で、ふたりだけの世界が、そっと生まれた。 一度、そっと唇が離れる。 けれど、再び寄せられるように、もう一度──ほんの少し、長く、深く、柔らかく。 それは誓いでも、欲望でもない。 ただ──ずっと触れたいと思っていた人に、ようやく触れることができた、そんな静かな感動だった。 唇が離れたあと、美羽はそっと目を開ける。 誠司も、同じように、美羽を見つめ返していた。 「……ごめんなさい。俺……」 言葉が続く前に、美羽は小さく首を横に振った。 「謝らないでください。……嬉しかった、です」 その一言で、誠司の目元が、微かに緩んだ。 そして、重ねた手を強くもなく、弱くもなく──そっと握り直した。 テラスの外では、まだ会場の余韻が騒がしさを残していたけれど。 ふたりの時間だけは、誰にも邪魔されない静けさに包まれていた。 ホテルの煌びやかな灯りが遠ざかるタクシーの車窓に、夜の街の明かりが流れていく。 誠司はシートに深くもたれかかり、ふぅと小さく息を吐いた。 「……災難だったなぁ、誠司」 ふと、笠井に掛けられた言葉が頭を過った。 ──あの後、騒動の火消しに奔走した笠井が、さりげなく声を掛けてくれたのだ。 「まさかあんなことになるとは……けど、ほんとすごいな。 言い返すとこ、俺、感動しちゃったよ。」 「……ありがとう。でも、迷惑かけたな」 「いえ。むしろ……青木さんのこと、よろしくお願いしますって、頭を下げられた。まだ若いのに、しっかりしてるな。大事にしろよ。」 その言葉を思い出した誠司は、苦笑いしながら視線を隣へと向ける。 後部座席の中、誠司と美羽は少しだけ距離をあけて座っていた。 けれど、その距離を埋めるように、二人の手は静かに繋がれていた。 絡んだ指はしっかりと、でも優しく──握られている。 (さっきのキスも、言葉も。全部、夢じゃないんだな……) 窓の外の街灯が、通り過ぎるたびに、美羽の頬にちらちらと柔らかな光と影を落としていく。 いつもよりも華やかなドレス姿に、綺麗に整えられた髪。 パーティのために用意されたその姿は、まだどこか非日常の中にいるようで、隣にいるのが不思議に感じられた。 けれど、繋がれた指先だけは、確かに“いま”を示していた。 誠司は、美羽の小さな手のひらの温もりに、そっと親指をすべらせる。 その動きに、ぴくりと肩を揺らした美羽が、気まずそうに俯いた。 「……ごめん。痛かった?」 「いえ……びっくりしただけ、です……」 そう小さく呟く声に、誠司はふっと目を細めて笑った。 無理に話すことはなかった。ただ、その手を離したくないとだけ思った。 やがてタクシーは、ゆるやかに自宅マンションの前に滑り込む。 繋いだ手はそのままに、誠司は「帰ろうか」とだけ言った。 美羽もまた、小さく頷く。 夜は、もう深い。 けれどその夜の静けさに、ふたりの繋がれた指先だけが、確かな未来への希望を灯していた。 玄関の鍵がカチリと音を立てて開き、二人が並んで部屋に入る。 いつもの部屋。いつもの空気。 でも、今日だけは少しだけ違って感じた。 「……楽しかったです。今日は」 美羽の小さな声に、誠司もまたゆっくりと頷いた。 「こっちこそ。ありがとう、来てくれて」 部屋の明かりがほんのり二人を照らす。 脱いだコートをハンガーにかけながら、美羽がふと振り向いた瞬間―― 「……美羽さん」 名前を呼ばれ、目が合う。 次の瞬間には、もう距離がなかった。 そっと肩を引き寄せられ、やわらかく唇が重なる。 さっきのテラスでのキスとは、また違う。 今度はほんの少し長くて、ほんの少しだけ、切なさを含んでいる。 「……おやすみなさい」 唇を離し、そう囁いた誠司の声は、やさしく、そして深かった。 美羽は目を伏せながら、小さく「おやすみなさい」と返し、その場から逃げるように寝室へと歩き出す。 扉が閉まる直前、頬に火照りを残したまま―― (キスって、あんなに……あったかいんだな……) 胸の奥で、小さな灯が静かにともり続けていた。

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