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第45話
朝の光がカーテン越しに差し込み、柔らかく室内を包む。
いつもより少し早く目が覚めた美羽は、シーツの中で小さく身じろぎながら、昨夜のキスの余韻を思い出していた。
(……夢じゃなかったよね)
鼓動がまた、昨夜のように早鐘を打ち始める。けれど、どこかあたたかい。
キッチンでは、早く起きた誠司が、少しぎこちない手つきでコーヒーを淹れていた。
普段通りを装っているように見えて、その背中からも少しだけ、緊張が伝わってくる。
「……おはようございます」
「……おはよう。よく眠れましたか?」
いつも通りのやりとりなのに、どこか初々しい空気が漂う。
顔を合わせるたび、どちらからともなく目を逸らしてしまい、また笑ってしまう。
「次の休み、どこに行きましょうか?」
「ああ……そうですね。甘いもの、また探してみますか?」
ぎこちなさはあるけれど、それを大切に包み込むような空気がそこにはあった。
食事を終え、誠司が上着に袖を通す。
美羽はキッチンから回収したお弁当箱を手に、玄関まで見送りに向かう。
「……今日も、頑張ってください」
「ありがとう。いって……」
手を伸ばして、お弁当箱を受け取ろうとしたそのときだった。
美羽の手が、お弁当箱から離れない。
「……?」
誠司が少し首を傾げたその瞬間――
ふっと微笑んだ誠司が、手に添えられた美羽の手の上にそっと触れて、そのまま、顔を近づけ柔らかく唇を寄せた。
キスというにはあまりにささやかで、けれど確かに心を震わせる、それは“約束”のような一瞬だった。
「行ってきます」
そう囁いた声はどこまでも優しくて、
思わず「いってらっしゃい」と答える美羽の声が震えた。
扉が閉まり、静けさが戻った玄関。
美羽はまだ熱の残る唇を指先でそっとなぞり、次の瞬間、がくりと壁にもたれかかる。
「……なんで、あんなこと……っ」
熱が引かないまま、膝を抱えるようにしゃがみ込む。
けれどその頬には、ふわりと微笑みのような照れが滲んでいた。
どこかふわふわするような浮遊感に包まれて、美羽は毎日を過ごしていた。
頬が緩みっぱなしで、自分でもきっとニヤニヤしているだろうなと思いながらも、止められない。
朝起きて、カーテンの隙間から差し込む光に目を細める。
そのあとすぐに隣を見ると、まだ眠っている誠司の寝顔。
ほんのりとかすかな寝息を立てていて、それだけで胸がいっぱいになる。
(ああ……本当に、一緒に暮らしてるんだ)
それだけで、世界が自分の味方になってくれているように思えた。
朝は手を繋いでキスをして、夜は手を繋いだまま眠る。
肌を重ねたわけじゃないけれど、それよりももっと優しくて、大事にされていると感じられる。
“僕は、誠司さんに会うために、生まれてきたのかもしれない”
そんなことまで思ってしまうくらいに、美羽の中では全てが順風満帆だった。
毎朝、誠司のために作るお弁当も、今ではすっかり日課となった。
本や動画でレシピを調べて、新しい具材や彩りに挑戦するたびに、誠司が驚いて笑ってくれるのが嬉しくて仕方ない。
その笑顔が見たいから、もっと料理を勉強したいと思うようになった。
(もっと喜んでほしい。もっと笑ってほしい)
恋をした女の子は強くなるというけれど、美羽の場合はそれに“楽しさ”が乗っかっていた。
誠司の笑顔のためなら、なんでもできそうだった。
朝の陽ざしがカーテン越しに差し込み、室内を淡く照らしていた。
目を覚ました美羽は、誠司の穏やかな寝息を聞きながら、その寝顔をそっと見つめていた。こうして、隣で目覚める日常がまだ夢のようで、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
ふと、誠司の睫毛がぴくりと震えた。
そのままゆっくりと目を開き、美羽と視線が重なる。
「……おはようございます」
まだ眠たげな声で囁く美羽に、誠司はほんの少しだけ口元を綻ばせて、「おはよう」と応えた。
そして、ごく自然に、美羽の頬に指を添えて唇を重ねてくる。
ああ、また今朝も。
当たり前のようになりつつあるこのキスが、心から嬉しかった。
けれど、そのまま別れ際のような軽いキスで終わると思っていた唇が、やわらかくもう一度重なった。
触れた唇の隙間から、今度はわずかに舌先が覗く。
「……っ」
美羽が微かに目を見開いたとき、誠司の舌が遠慮がちに美羽の唇を撫でる。
それに戸惑いながらも応じると、自然と舌先が絡み合い、静かな朝の空気の中で、ちゅ、と粘着質な音がわずかに響いた。
ふとした瞬間、美羽の喉から甘い声が漏れた。
「……んっ……」
それは明確な、欲しがるような、求めるような声音だった。
次の瞬間、誠司が突然はっとしたように身を引き、バサッと布団を押しのけて体を起こす。
「……す、すみません、生理現象で……」
耳まで真っ赤にしながら、背を向けるようにして布団から立ち上がり、ぎこちなくベッドを出て行こうとする誠司の背中を、美羽はぽかんと見送った。
(……生理現象?)
その言葉の意味を考えるよりも早く、思い当たってしまった。
──自分の、あの声のせい?
さっきの、あの甘い吐息。
あんな声、出すつもりなんてなかったのに。
もしかして、あれで誠司を……?
「……っ」
美羽は慌てて顔を布団に埋め、耳まで真っ赤に染めて身を小さく丸めた。
そして、その布団の中──
自分自身にも、確かに熱が宿っていることに気づいてしまう。
(なんで……僕まで、……なんで、こんな……)
誠司に触れられたくて、触れたくて──
そんな気持ちが、もう身体のどこかに染みついてしまっているのだと、今さら思い知らされた美羽は、ただ静かに、鼓動の高鳴りと、羞恥と、戸惑いと、ほんの少しの期待を抱えながら、布団の中でそっと目を閉じた。
その日は朝から青空が広がっていた。
ふたりは久しぶりの外出に、少し緊張しながらも、どこか浮き足立ったような空気で街へ出かけていた。
目的地は、前から美羽が行ってみたいと言っていたドーナツ屋。
並んで歩くうち、誠司から自然に手を差し伸べられ、最初は少しだけ指先を絡めるだけだったものが、人混みに差し掛かった時には自然と腕を組むようになっていた。
その温もりが嬉しくて、美羽は何度も胸がドキドキするのを感じながら、笑顔を隠せなかった。
帰り道。ふたりはちょっと立ち寄った雑貨屋のショーウィンドウに並ぶバッグに足を止めた。
ふと美羽の目がある一点に留まる。
(……かわいい)
手に取ることはなかったけれど、少しの間だけ見つめていた姿に、誠司は気づいていた。
「欲しいんですか?」と尋ねたとき、美羽はすぐに首を横に振った。
「いえ、いりません……高いですし、そんな……」
その後、すぐ隣のカフェでお茶をすることにした。
テラス席に座って、スイーツと紅茶を頼むと、美羽が「ちょっとだけお手洗いに……」と席を外した。
そのほんのわずかな間に、誠司はすぐに店を出てさっきの店へと向かった。
そして、戻ってきた時――
「……これ、さっき見てたでしょ?」
差し出された紙袋に、美羽は目を丸くした。
「……えっ……? えっ……これ……」
「遠慮しないで。僕があげたいと思ったから。……それだけです」
それだけ、と言いながら、誠司の表情はどこか優しく、少しだけ照れくさそうだった。
美羽は、袋からバッグをそっと取り出して、胸に抱きしめるようにして、大切そうに呟いた。
「……大事にします」
その小さな声に、誠司の心が静かに波打った。
──そしてその夜。
「……おやすみなさい」と囁きながら、いつものように誠司が唇を重ねる。
でも今夜は、ほんの少しだけ、長く。
舌先が触れ合い、唇の温度を確かめるように深くなる。
「んっ……」
甘い声が漏れた瞬間、美羽は自分からもそっと唇を押し当てていた。
触れて、応えて、また少し触れて――
そんな優しいキスの応酬が続く中、誠司はゆっくりとキスを終えたあと、そっと美羽の額にもう一度唇を落とした。
「……おやすみなさい」
そう囁かれた瞬間、美羽の瞳は涙でにじみそうになって――
その夜、ふたりはまだ触れ合うことも、求め合うこともないまま、
けれど確かに“愛されている”ことを実感して、手を繋いで眠りについた。
けれど――
そんな日々が、まるで奇跡のように穏やかだったことに、美羽はまだ気づいていなかった。
空がこんなにも青くて、風がこんなにも心地いい日は、案外と、嵐の前だったりする。
ほんの少しだけ狂った歯車が、やがて大きな軋みを生んでしまうこともある。
美羽にとっての“暗雲”は、きっともうすぐそこまで来ていた。
それでも――今日の彼女は、そんなことを何ひとつ知らないまま、いつもより少しだけ張り切って卵焼きを焼いていた。
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