46 / 59

第45話

朝の光がカーテン越しに差し込み、柔らかく室内を包む。 いつもより少し早く目が覚めた美羽は、シーツの中で小さく身じろぎながら、昨夜のキスの余韻を思い出していた。 (……夢じゃなかったよね) 鼓動がまた、昨夜のように早鐘を打ち始める。けれど、どこかあたたかい。 キッチンでは、早く起きた誠司が、少しぎこちない手つきでコーヒーを淹れていた。 普段通りを装っているように見えて、その背中からも少しだけ、緊張が伝わってくる。 「……おはようございます」 「……おはよう。よく眠れましたか?」 いつも通りのやりとりなのに、どこか初々しい空気が漂う。 顔を合わせるたび、どちらからともなく目を逸らしてしまい、また笑ってしまう。 「次の休み、どこに行きましょうか?」 「ああ……そうですね。甘いもの、また探してみますか?」 ぎこちなさはあるけれど、それを大切に包み込むような空気がそこにはあった。 食事を終え、誠司が上着に袖を通す。 美羽はキッチンから回収したお弁当箱を手に、玄関まで見送りに向かう。 「……今日も、頑張ってください」 「ありがとう。いって……」 手を伸ばして、お弁当箱を受け取ろうとしたそのときだった。 美羽の手が、お弁当箱から離れない。 「……?」 誠司が少し首を傾げたその瞬間―― ふっと微笑んだ誠司が、手に添えられた美羽の手の上にそっと触れて、そのまま、顔を近づけ柔らかく唇を寄せた。 キスというにはあまりにささやかで、けれど確かに心を震わせる、それは“約束”のような一瞬だった。 「行ってきます」 そう囁いた声はどこまでも優しくて、 思わず「いってらっしゃい」と答える美羽の声が震えた。 扉が閉まり、静けさが戻った玄関。 美羽はまだ熱の残る唇を指先でそっとなぞり、次の瞬間、がくりと壁にもたれかかる。 「……なんで、あんなこと……っ」 熱が引かないまま、膝を抱えるようにしゃがみ込む。 けれどその頬には、ふわりと微笑みのような照れが滲んでいた。 どこかふわふわするような浮遊感に包まれて、美羽は毎日を過ごしていた。 頬が緩みっぱなしで、自分でもきっとニヤニヤしているだろうなと思いながらも、止められない。 朝起きて、カーテンの隙間から差し込む光に目を細める。 そのあとすぐに隣を見ると、まだ眠っている誠司の寝顔。 ほんのりとかすかな寝息を立てていて、それだけで胸がいっぱいになる。 (ああ……本当に、一緒に暮らしてるんだ) それだけで、世界が自分の味方になってくれているように思えた。 朝は手を繋いでキスをして、夜は手を繋いだまま眠る。 肌を重ねたわけじゃないけれど、それよりももっと優しくて、大事にされていると感じられる。 “僕は、誠司さんに会うために、生まれてきたのかもしれない” そんなことまで思ってしまうくらいに、美羽の中では全てが順風満帆だった。 毎朝、誠司のために作るお弁当も、今ではすっかり日課となった。 本や動画でレシピを調べて、新しい具材や彩りに挑戦するたびに、誠司が驚いて笑ってくれるのが嬉しくて仕方ない。 その笑顔が見たいから、もっと料理を勉強したいと思うようになった。 (もっと喜んでほしい。もっと笑ってほしい) 恋をした女の子は強くなるというけれど、美羽の場合はそれに“楽しさ”が乗っかっていた。 誠司の笑顔のためなら、なんでもできそうだった。 朝の陽ざしがカーテン越しに差し込み、室内を淡く照らしていた。 目を覚ました美羽は、誠司の穏やかな寝息を聞きながら、その寝顔をそっと見つめていた。こうして、隣で目覚める日常がまだ夢のようで、胸の奥がふわりとあたたかくなる。 ふと、誠司の睫毛がぴくりと震えた。 そのままゆっくりと目を開き、美羽と視線が重なる。 「……おはようございます」 まだ眠たげな声で囁く美羽に、誠司はほんの少しだけ口元を綻ばせて、「おはよう」と応えた。 そして、ごく自然に、美羽の頬に指を添えて唇を重ねてくる。 ああ、また今朝も。 当たり前のようになりつつあるこのキスが、心から嬉しかった。 けれど、そのまま別れ際のような軽いキスで終わると思っていた唇が、やわらかくもう一度重なった。 触れた唇の隙間から、今度はわずかに舌先が覗く。 「……っ」 美羽が微かに目を見開いたとき、誠司の舌が遠慮がちに美羽の唇を撫でる。 それに戸惑いながらも応じると、自然と舌先が絡み合い、静かな朝の空気の中で、ちゅ、と粘着質な音がわずかに響いた。 ふとした瞬間、美羽の喉から甘い声が漏れた。 「……んっ……」 それは明確な、欲しがるような、求めるような声音だった。 次の瞬間、誠司が突然はっとしたように身を引き、バサッと布団を押しのけて体を起こす。 「……す、すみません、生理現象で……」 耳まで真っ赤にしながら、背を向けるようにして布団から立ち上がり、ぎこちなくベッドを出て行こうとする誠司の背中を、美羽はぽかんと見送った。 (……生理現象?) その言葉の意味を考えるよりも早く、思い当たってしまった。 ──自分の、あの声のせい? さっきの、あの甘い吐息。 あんな声、出すつもりなんてなかったのに。 もしかして、あれで誠司を……? 「……っ」 美羽は慌てて顔を布団に埋め、耳まで真っ赤に染めて身を小さく丸めた。 そして、その布団の中── 自分自身にも、確かに熱が宿っていることに気づいてしまう。 (なんで……僕まで、……なんで、こんな……) 誠司に触れられたくて、触れたくて── そんな気持ちが、もう身体のどこかに染みついてしまっているのだと、今さら思い知らされた美羽は、ただ静かに、鼓動の高鳴りと、羞恥と、戸惑いと、ほんの少しの期待を抱えながら、布団の中でそっと目を閉じた。 その日は朝から青空が広がっていた。 ふたりは久しぶりの外出に、少し緊張しながらも、どこか浮き足立ったような空気で街へ出かけていた。 目的地は、前から美羽が行ってみたいと言っていたドーナツ屋。 並んで歩くうち、誠司から自然に手を差し伸べられ、最初は少しだけ指先を絡めるだけだったものが、人混みに差し掛かった時には自然と腕を組むようになっていた。 その温もりが嬉しくて、美羽は何度も胸がドキドキするのを感じながら、笑顔を隠せなかった。 帰り道。ふたりはちょっと立ち寄った雑貨屋のショーウィンドウに並ぶバッグに足を止めた。 ふと美羽の目がある一点に留まる。 (……かわいい) 手に取ることはなかったけれど、少しの間だけ見つめていた姿に、誠司は気づいていた。 「欲しいんですか?」と尋ねたとき、美羽はすぐに首を横に振った。 「いえ、いりません……高いですし、そんな……」 その後、すぐ隣のカフェでお茶をすることにした。 テラス席に座って、スイーツと紅茶を頼むと、美羽が「ちょっとだけお手洗いに……」と席を外した。 そのほんのわずかな間に、誠司はすぐに店を出てさっきの店へと向かった。 そして、戻ってきた時―― 「……これ、さっき見てたでしょ?」 差し出された紙袋に、美羽は目を丸くした。 「……えっ……? えっ……これ……」 「遠慮しないで。僕があげたいと思ったから。……それだけです」 それだけ、と言いながら、誠司の表情はどこか優しく、少しだけ照れくさそうだった。 美羽は、袋からバッグをそっと取り出して、胸に抱きしめるようにして、大切そうに呟いた。 「……大事にします」 その小さな声に、誠司の心が静かに波打った。 ──そしてその夜。 「……おやすみなさい」と囁きながら、いつものように誠司が唇を重ねる。 でも今夜は、ほんの少しだけ、長く。 舌先が触れ合い、唇の温度を確かめるように深くなる。 「んっ……」 甘い声が漏れた瞬間、美羽は自分からもそっと唇を押し当てていた。 触れて、応えて、また少し触れて―― そんな優しいキスの応酬が続く中、誠司はゆっくりとキスを終えたあと、そっと美羽の額にもう一度唇を落とした。 「……おやすみなさい」 そう囁かれた瞬間、美羽の瞳は涙でにじみそうになって―― その夜、ふたりはまだ触れ合うことも、求め合うこともないまま、 けれど確かに“愛されている”ことを実感して、手を繋いで眠りについた。 けれど―― そんな日々が、まるで奇跡のように穏やかだったことに、美羽はまだ気づいていなかった。 空がこんなにも青くて、風がこんなにも心地いい日は、案外と、嵐の前だったりする。 ほんの少しだけ狂った歯車が、やがて大きな軋みを生んでしまうこともある。 美羽にとっての“暗雲”は、きっともうすぐそこまで来ていた。 それでも――今日の彼女は、そんなことを何ひとつ知らないまま、いつもより少しだけ張り切って卵焼きを焼いていた。

ともだちにシェアしよう!