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第46話
「いってらっしゃいませ」
いつもと同じように、美羽は微笑んで玄関先に立っていた。
扉が閉まり、誠司の足音が遠ざかる。
ほんの数秒前まで隣にいた人がいなくなる。
でも、その背中を見送るこの時間が、美羽にとって何よりも愛おしかった。
リビングに戻ると、朝の光がふわりと差し込む。
紅茶の湯気。丁寧に作ったお弁当。
そして、出がけのキスはいつもより少しだけ甘く、長かった。
──浮かれていたのかもしれない。
無意識のうちに、いつもかけている玄関の鍵を、今日は忘れていた。
カチッ──
不意に、ドアノブが回る音がした。
(……え?)
扉がゆっくりと、開いていく。
そこに立っていたのは──
「……ひさしぶり、元気にしてた?」
薄く笑いながら、ずかずかと入り込んできたのは、水谷だった。
「ど、どうして……」
言いかけた声に構うこともなく、彼女は勝手にリビングへ踏み込む。
「あれから、どうなったかしら?何かいいモノ、買ってもらった?」
その視線が、部屋中を舐めるように動く。
「──ねぇ、あの男、あんたに興味ないの? それともED?
まさか3ヶ月近く経っても、まだあんたに触れてないなんて。
“女になっても“、よっぽど魅力ないのね。」
「……水谷さん、帰ってください。ここは──」
「“ここは”なんなの? 偽物の癖に、一丁前にそんな顔するようになったのね。」
まるで楽しむように、わざと冷蔵庫を開け、棚を物色し始める。
そして──視線が止まった。
「ねぇ、美羽ちゃん!あれ、なぁに?」
それは、リビングの棚の一角。
小さなガラスの宝石箱。
パーティーの夜、誠司が贈ってくれたネックレス、イヤリング、そして──ダイヤの光を宿す、ミルクラウンの指輪。
「あらぁ…あらあらあら…!このネックレス、素敵じゃない!」
「──…やめて、」
「 ふふ、いいものもらってるじゃない。ダイヤのついた指輪ね!?」
「──っ、それは触らないで!」
美羽は思わず、水谷の手をつかんだ。
けれど、水谷は顔をぐっと近づけ、美羽を睨みつけるように囁いた。
「……ねぇ、あんた、自分の立場、分かってる?
──思い出させてあげようか?」
声が、急に低くなる。
「私が“あんたの本当の性別”をバラせば、全部終わるのよ。
あんたの人生も、あの男に捨てられるのも、あっという間!!
何もかも、無かったことになるの──!」
声は冷たく低く、耳元に這うようだった。
「私だって共倒れになるかもしれないけど、地獄に引きずり込むことくらい簡単よ。賢い美羽ちゃんだもの……分かるわよね?」
美羽の身体が、かすかに震える。
「黙って私の言うこと聞いてればいいのよ!
最初からそうだったでしょう?
──あんたに、自由なんかないんだから!」
見えない鎖が、喉元に巻きついていくような感覚。
苦しくて、息ができない。
それでも、美羽は、声を絞り出した。
「……帰ってください」
そのときだった。
「──今の、どういう意味ですか」
その低い声に、時が止まった。
振り返ると、そこに立っていたのは──
スーツ姿の誠司。
鋭く静かな怒りをその目に宿し、扉の前に立っていた。
「性別を……偽っていた……?」
水谷の顔から、血の気が引いた。
「ちょ、ちょっとした冗談よ!ねぇ、誠司さん? 冗談よ? 冗談に決まってるじゃない──そんな顔、やめてよ、冗談なのに!」
「それは婚姻制度を利用した重大な虚偽行為です。
詐欺罪にあたります。告訴することもできるんですよ?」
誠司の声は淡々としていた。
水谷は舌打ちし、乱暴にバッグを掴む。
「……美羽!!何とかしときなさいよ!!!」
ドアがバン、と閉まり、水谷の気配が消える。
でも、部屋に残された空気は、凍りついたままだった。
──何とかって…こんなの。
何とかできると思ってるの?
沈黙が、重く降りていた。
やがて、誠司が口を開く。
「……今の話、本当ですか?」
その声は低く、冷たく澄んでいた。
怒鳴り声ではなかった。
だけど、だからこそ、美羽の心に鋭く突き刺さる。
「……」
返事を探して言葉を飲み込む美羽に、誠司が一歩、前に出る。
「言い訳を考えてるなら、もういいです。聞きません」
「こちらから質問します。“はい”か“いいえ”で答えてください」
その声は、まるで感情を押し殺した刃のようだった。
「──あなたは、性別を偽って、俺とのマッチングに応募したんですね?」
「……そ、それは──」
「“はい”か“いいえ”です」
「……はい」
「俺を、騙していたんですね」
「……はい……」
「俺との結婚は、あなたの本意じゃなかった?」
「……はい…」
「じゃあ──施設に命じられた、義務だったんですか?」
「……はい……」
「俺と過ごした時間は、楽しかったですか?」
「……はい……」
「騙しながら笑っていた。──面白かったですか?」
「……いいえ……っ」
涙が、ぽた、と足元に落ちた。
でも、誠司の表情は微動だにしない。
「俺にお弁当を作ってくれたのは、懐柔のためですか?」
「ちが……違います」
「じゃあ、罪悪感から?」
「……いいえ……」
(ちがう。ちがう……)
お弁当を作ったのも、洗濯をしたのも、掃除を頑張ったのも。
全部、“妻”としての務めを果たしたかっただけ。
“男”でも“偽物”でもない、
あなたの“妻”として、できる限りのことをしたかった。
せめて役に立ちたかった。
少しでも、
「この子と結婚して良かった」って、思ってほしかった。
それだけだった。
……なのに、気づけば。
誠司さんの声を聞くだけで、胸が高鳴るようになっていて。
名前を呼ばれるたびに、心がふるえて。
“好き”になってしまっていた。
本当に、どうしようもないくらいに。
でも、どうしようもなかった。
怖くて言えなかった。
伝えた瞬間に、すべてが終わってしまうと分かっていたから。
「──今の俺の気持ち、分かりますか」
沈黙を破るように、誠司が低く呟いた。
「……信じていたんです。
心を開いて、名前を呼んで、未来を描いてた」
「……」
美羽は唇を噛む。
でも、その痛みすらも、嘘の罰には足りなかった。
「──全部、嘘だったんですか?」
その問いに、美羽は、かすかに首を振った。
違う、と。
全部が嘘だったわけじゃない。
少なくとも、あなたへの気持ちは──
けれど、誠司の瞳には、まだその思いは届いていなかった。
「……君が女性じゃないと分かっていたら、
俺はマッチングに応じてなかった。──それが現実です」
その言葉は、美羽の心をまっすぐに刺し貫いた。
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