49 / 59
第48話
「弱い声を出せば、許してもらえるとでも思ってるんですか」
その言葉に怒鳴り声はなかった。
けれど、静けさの奥に、凍えるような怒りと失望が渦を巻いていた。
「……嘘をついて、心を揺さぶって、涙で同情を買って……
そうやって何人を騙してきたんですか?」
美羽は、何も言えなかった。
違う、そんなつもりじゃない。
でも──もう何を言っても届かない。
誠司の声は、あまりにも遠くて冷たかった。
「最初のあの笑顔も……優しい仕草も……
“美羽”という名前も……全部“演技”だったんですよね」
そんなはずない。
全部、本当だった。
“美羽”という名前に、誇りなんて持ってなかった。
けれど、誠司と過ごしたあの時間だけは、本物だった。
(……違うのに……)
声は、喉まで届いて、そこでつかえてしまう。
「──今さら、都合のいい思い出だけ抱えて去ろうなんて、甘いですよ」
静かに言い放った誠司は、そのまま背を向け、寝室へと消えていった。
美羽は、一歩も動けなかった。
冷え切った部屋の空気に、息をすることさえ忘れそうだった。
まるで、誠司の言葉が──
“君の感情は、全部嘘だった”と告げたように、胸を刺した。
けれど、美羽には分かっていた。
演技だったのは、最初だけだ。
ただ生き延びるために作った笑顔。
選ばれるためだけの仕草。
けれど──
誠司と過ごす中で芽生えていった、心のあたたかさだけは──
どんな嘘よりも、ずっと、ずっと本物だった。
──◇──
寝室に戻った誠司は、ネクタイの入った引き出しを開けた。
手を伸ばしたその先で、ふと視線が止まる。
──カフス入れ。
整然と並べられたカフスの中に、
ひときわ目立たない、小さな箱。
美羽が、自分のために初めて買ってくれたものだった。
不意に、息が詰まった。
あの時、確かに言ったのだ。
「僕も、これをつけてパーティに行きます」
嬉しかった。
あのときの美羽の顔は、抱きしめたくなるほどに可憐だった。
思い出すたび、喉の奥が熱くなる。
──本当に、全部演技だったんだろうか。
裏で彼女は、何も知らない俺をくすくす笑っていたんだろうか。
そんなことしない。
俺が知ってる彼女なら──きっと、ずっと苦しんでたはずだ。
嘘をつき続けてることも、俺を騙してることも。
──騙す──
それなら、俺も彼女を騙してたじゃないか。
あの夜の、記憶が蘇る。
──パーティー会場。
僕は子供が望めない体だと、元婚約者の声が響き、ざわつく空間の中で、それでも彼女は一歩も引かなかった。
「私は……それでも、誠司さんが、好きです」
静かに、でも確かに、そう言った。
──そう言ってくれたじゃないか。
あの言葉がどれだけ心を揺さぶったか、思い出せばすぐに分かる。
美羽の想いは“演技”なんかじゃなかった。
本物の気持ちだった。
震える声も、まっすぐな目も、すべてが。
胸が、ぎゅっと痛んだ。
子どもができない体だと、伝えた。
けれどあれは、“真実”ではなかった。
本当は──望まなかっただけだ。
未来を築くことも、家庭を持つことも、もう遠い世界のことだと勝手に思っていた。
最初から、「こんな俺には家庭なんて持てない」と、諦めていた。
なのに、制度が迫り、母の介護が現実になり、“条件”としての結婚を選んだ。
(俺だって……美羽さんを、利用したじゃないか)
結婚という仕組みの中で、美羽に心を許しながら、
過去の傷を隠し、自分の都合のいいように振る舞っていた。
「……同じだな、俺も」
小さく、独りごちた。
美羽だけじゃない。
自分だって、真実から目を逸らしていた。
それでも彼女は、逃げなかった。
“嘘”で始まった関係だったのに、
“本当”をぶつけてきたのは、彼女の方だった。
誰に否定されても、何を言われても、
「私は、誠司さんが好きです」と言ってくれた。
それなのに、俺は……。
震える手でカフスを握り締めながら、誠司は息を吐く。
(……全部を嘘だと思うには──無理がある)
俺のためにと買ってきてくれたパン。
慣れない手つきで作ってくれた、卵のヒヨコ。
キスをして、手を繋いだ夜。
触れるたびに、重ねるたびに、
彼女との時間は──確かに、かけがえのないものになっていた。
どんな姿であろうと、どんな経緯であれ。
彼女が、いなくなると思うだけで……胸の奥が締めつけられる。
「……美羽」
ようやく口にしたその名前は、驚くほど自然だった。
言葉にした瞬間、何かがほどけるように、肩の力が抜けていく。
きっと、ずっと前から気づいていた。
ただ、認めるのが怖かっただけ。
──僕も君に、惹かれていた。
“騙された”とか“裏切られた”なんて、もうどうでもいい。
言いたいのは、たった一つだ。
「君に、出会えてよかった」
ともだちにシェアしよう!

