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第48話

「弱い声を出せば、許してもらえるとでも思ってるんですか」 その言葉に怒鳴り声はなかった。 けれど、静けさの奥に、凍えるような怒りと失望が渦を巻いていた。 「……嘘をついて、心を揺さぶって、涙で同情を買って…… そうやって何人を騙してきたんですか?」   美羽は、何も言えなかった。 違う、そんなつもりじゃない。 でも──もう何を言っても届かない。 誠司の声は、あまりにも遠くて冷たかった。   「最初のあの笑顔も……優しい仕草も……  “美羽”という名前も……全部“演技”だったんですよね」   そんなはずない。 全部、本当だった。 “美羽”という名前に、誇りなんて持ってなかった。 けれど、誠司と過ごしたあの時間だけは、本物だった。   (……違うのに……) 声は、喉まで届いて、そこでつかえてしまう。   「──今さら、都合のいい思い出だけ抱えて去ろうなんて、甘いですよ」 静かに言い放った誠司は、そのまま背を向け、寝室へと消えていった。   美羽は、一歩も動けなかった。 冷え切った部屋の空気に、息をすることさえ忘れそうだった。 まるで、誠司の言葉が── “君の感情は、全部嘘だった”と告げたように、胸を刺した。   けれど、美羽には分かっていた。 演技だったのは、最初だけだ。 ただ生き延びるために作った笑顔。 選ばれるためだけの仕草。 けれど── 誠司と過ごす中で芽生えていった、心のあたたかさだけは── どんな嘘よりも、ずっと、ずっと本物だった。 ──◇── 寝室に戻った誠司は、ネクタイの入った引き出しを開けた。 手を伸ばしたその先で、ふと視線が止まる。 ──カフス入れ。 整然と並べられたカフスの中に、 ひときわ目立たない、小さな箱。 美羽が、自分のために初めて買ってくれたものだった。 不意に、息が詰まった。 あの時、確かに言ったのだ。 「僕も、これをつけてパーティに行きます」 嬉しかった。 あのときの美羽の顔は、抱きしめたくなるほどに可憐だった。 思い出すたび、喉の奥が熱くなる。 ──本当に、全部演技だったんだろうか。 裏で彼女は、何も知らない俺をくすくす笑っていたんだろうか。 そんなことしない。 俺が知ってる彼女なら──きっと、ずっと苦しんでたはずだ。 嘘をつき続けてることも、俺を騙してることも。 ──騙す── それなら、俺も彼女を騙してたじゃないか。 あの夜の、記憶が蘇る。 ──パーティー会場。 僕は子供が望めない体だと、元婚約者の声が響き、ざわつく空間の中で、それでも彼女は一歩も引かなかった。 「私は……それでも、誠司さんが、好きです」 静かに、でも確かに、そう言った。 ──そう言ってくれたじゃないか。 あの言葉がどれだけ心を揺さぶったか、思い出せばすぐに分かる。 美羽の想いは“演技”なんかじゃなかった。 本物の気持ちだった。 震える声も、まっすぐな目も、すべてが。 胸が、ぎゅっと痛んだ。 子どもができない体だと、伝えた。 けれどあれは、“真実”ではなかった。 本当は──望まなかっただけだ。 未来を築くことも、家庭を持つことも、もう遠い世界のことだと勝手に思っていた。 最初から、「こんな俺には家庭なんて持てない」と、諦めていた。 なのに、制度が迫り、母の介護が現実になり、“条件”としての結婚を選んだ。 (俺だって……美羽さんを、利用したじゃないか) 結婚という仕組みの中で、美羽に心を許しながら、 過去の傷を隠し、自分の都合のいいように振る舞っていた。 「……同じだな、俺も」 小さく、独りごちた。 美羽だけじゃない。 自分だって、真実から目を逸らしていた。 それでも彼女は、逃げなかった。 “嘘”で始まった関係だったのに、 “本当”をぶつけてきたのは、彼女の方だった。 誰に否定されても、何を言われても、 「私は、誠司さんが好きです」と言ってくれた。 それなのに、俺は……。 震える手でカフスを握り締めながら、誠司は息を吐く。 (……全部を嘘だと思うには──無理がある) 俺のためにと買ってきてくれたパン。 慣れない手つきで作ってくれた、卵のヒヨコ。 キスをして、手を繋いだ夜。 触れるたびに、重ねるたびに、 彼女との時間は──確かに、かけがえのないものになっていた。 どんな姿であろうと、どんな経緯であれ。 彼女が、いなくなると思うだけで……胸の奥が締めつけられる。 「……美羽」 ようやく口にしたその名前は、驚くほど自然だった。 言葉にした瞬間、何かがほどけるように、肩の力が抜けていく。 きっと、ずっと前から気づいていた。 ただ、認めるのが怖かっただけ。 ──僕も君に、惹かれていた。 “騙された”とか“裏切られた”なんて、もうどうでもいい。 言いたいのは、たった一つだ。 「君に、出会えてよかった」

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