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第49話
寝室の扉を開けたとき、リビングにはもう、あの柔らかな気配がなかった。
ソファの上に、丁寧に畳まれたひざ掛け。
テーブルには、いつものように整頓されたリモコンと、飲みかけの紅茶。
──ただそこに、“彼女”はいなかった。
まるで、さっきまでの言い争いや涙なんて、何もなかったかのような静けさ。
けれど、空っぽになったその空間には、確かに彼女の“決意”だけが残されていた。
(……行ってしまったのか)
ジュエリーケースに視線を向けると、ひとつだけ、姿を消していた。
──あのおもちゃの指輪。
ネックレスも、イヤリングも、ミルクラウンの指輪もそのままだった。
けれど、安っぽくて、ガチャガチャの景品みたいな、あの小さな指輪だけが──そこになかった。
(……あれだけが、“本物”だったんだな)
初めて自分に買ってくれたもの。
誰にも触れさせまいと、震えながら水谷から守ったもの。
その想いだけは、きっと、嘘じゃなかった。
胸がきゅっと締めつけられる。
(……帰らせてたまるか)
もう二度と会えない場所へ──
別の誰かの隣へ、美羽が行ってしまうなんて、耐えられるはずがない。
もし制度の名の下に、あの子が新しい“マッチング”に組み込まれたら。
もし誰かの“妻”として立つことになったら。
もし、その誰かが、彼女が男だったとしても許せると言ったとしたら。
俺は、絶対に後悔する──
そんな想像だけで、視界が滲んだ。
玄関へ駆けるように向かう。
そして──開きかけた扉の向こうに、その姿を見つけた。
スカートの裾が、ふわりと揺れている。
白く細い指が、ドアノブに触れていた。
たった今、出て行こうとしていた彼女の背中。
(……間に合った)
思考よりも先に、身体が動いた。
「──美羽!!」
声を上げるより早く、伸ばした手が、彼女の細い腕を掴んでいた。
びくり、と彼女の肩が揺れた。
振り返ったその顔に、驚きと戸惑い、そして──涙。
その瞬間、俺はもう言葉を待たなかった。
ただ、ただ、胸の中へと彼女を抱き寄せた。
ぎゅっと、迷いも怒りも後悔も全部押し込めて、
壊れそうなその身体を、全力で包み込むように。
(行かないでくれ。お願いだ──)
あたたかくて、かすかに震えていて、
でも確かに“ここにいる”美羽を感じていた。
スローモーションみたいな一瞬だった。
世界が止まり、音が消えた。
肌の温度と、鼓動だけが、静かに重なっていた。
美羽が、小さく息を呑み、胸元に顔を埋めてくる。
「……どうして……」
押し殺すような声だった。
まだ信じられない、というように震えていた。
誠司は、彼女の髪をそっと撫でながら答える。
「……もう一度、君と、ちゃんと話し合いたい」
その声は、さっきの冷たい怒りとはまるで違っていた。
静かで、でも──どこまでもまっすぐだった。
「言葉にできていなかったことが、俺にもあります。
君を責める前に、俺自身が向き合わなきゃいけないことが……たくさんあったんです」
美羽が、ゆっくりと顔を上げる。
潤んだ目で、戸惑いと期待が揺れていた。
誠司は、彼女の手をそっと握った。
やさしく、けれど確かに、その手を離さないように。
「だから……行かないでほしい。どこにも行かないで。」
彼女の目から、また涙がこぼれた。
でもそれは、さっきまでの絶望とは違っていた。
小さな希望が、確かにその瞳に宿っていた。
「……はい」
ぽつりと、美羽が答える。
その一言が、二人のすべてを静かに繋ぎ直した。
“さよなら”の一歩手前で。
もう一度、始まりを選ぶその一言として──。
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