51 / 59

第50話

「………本当の名前は、何ていうんですか?」 その問いに、美羽の肩がぴくりと揺れた。 沈黙が落ちた部屋に、時計の針の音だけが静かに響く。 そして、やがて、ぽつりと小さな声が落ちた。 「……あおば。青い羽って書いて、あおば、です」 それは、自分でも驚くほど、喉の奥から自然にこぼれた。 ずっと封じてきた名前。 思い出したくも、呼ばれたくもなかった。 誠司はその名を繰り返すことなく、そっと目を細めた。 「──そんな名前だったんだ」 やわらかな声だった。 少しだけ間が空いて、それから、彼は静かに言った。 「……君は、その名前を捨てて、“美羽”として、俺の隣にいたいと思ってくれた。……それは、嘘じゃなかった?」 美羽は唇を噛んだまま、首を縦に振ることもできずに、ただ小さく呟く。 「……青羽には……いい思い出なんか、何もなかったんです。 呼ばれるたびに怯えて、叩かれるか、理不尽に怒られて……」 ぽつ、ぽつとこぼれる言葉は、涙と一緒に落ちていく。 「だから、忘れたかった。全部、なかったことにしたかった。 ……“美羽”になって、あなたの隣にいることだけが、本物だって思いたかった……」 誠司は何も言わず、その姿をじっと見つめていた。 視線が熱を持って、美羽の中の“嘘”を焼くようにまっすぐだった。 「……本当のことを、教えてほしい」 その声に、また空気が張り詰めた。 「……俺に触れられるのが怖かったのは、“バレる”のが怖かったから? それとも……他の誰かならよくて、“俺”に触れられるのが嫌だった?」 核心に触れる問い。 それは、誠司の胸をずっと締めつけていた、不安そのものだった。 「違う……っ」 立ち上がった美羽の声が震える。 「違うんです……! 誠司さんだったから、怖かったんです……!」 その言葉に、誠司の瞳が揺れる。 「……好きだったから。 触れてほしいと思ってしまうほど、好きだったから…… 優しくされるたび、名前を呼ばれるたびに、心が苦しくなって…… ……でも、全部嘘だったって知られたら、壊れてしまうって思って……」 美羽の頬を伝う涙が、ひとすじ、またひとすじ。 「本当は、ずっと、触れてほしかったんです…… だけど、私は、本物の女の子じゃないから──」 その瞬間、誠司の瞳がそっと細められた。 ゆっくりと一歩近づき、柔らかく問いかける。 「じゃあ……もし、俺が“全部“を知っても、 それでも君を好きでいられると言ったら── ……触れても、いい?」 その声は、静かな祈りだった。 答えを急かすこともなく、ただ、美羽のすべてを受け止めようとしていた。 美羽は、震える唇で、笑おうとする。 「……ずっと、誠司さんに触れてほしかった…… ……もし、本当の私のことを知っても…傍にいられたらって、何度も… ずっと、あなたの隣にいたいって……願ってた」 涙で濡れた声に、誠司の胸がきゅっと締めつけられる。 だが── 美羽がぽつりと続けた言葉が、空気を変えた。 「……でも、私の首には……透明な鎖がある」 「鎖……?」 「どこまで行っても、水谷さんからは逃げられない。 私は、幸せになっちゃいけない人間なんです──…」 その瞬間、誠司の顔つきが変わった。 静かに、そして迷いなく、彼は言った。 「そんなことない、美羽だって幸せになっていいんだ」 「──でも、誠司さんを騙してたんです。 「──だったら、証明させてくれないか」 「……証明?」 誠司の声は、震えていなかった。 「君は、もう“幸せになっていい”って。 もし、俺に抱かれることで、その証明ができるなら…」 その言葉は、彼なりの誓いだった。 「俺は、もう誰にも君を渡さない。  男でも、女でもどっちでも構わない…ただ、君が欲しいんだ」   ──その声に、胸が強く脈打った。 唐突なんかじゃない。 ずっと、ここまで積み重ねてきた感情のすべてが、 ようやく“ひとつ”になろうとしていた。   美羽は、涙の滲んだ目のままで、小さく頷いた。 「……誠司さんが、欲しいって言ってくれるなら…… 私も、あなたのものになりたい── それが、“私の“意思だって、証明になる?」 小さな声だったけど、震えながらも、確かに届いた。 美羽の中の恐れも嘘も、もうそこにはなかった。   誠司はそっと、美羽の頬に触れた。 指先が、涙のあとをなぞるようにやさしく撫でる。 「──全部、見せてくれないか?」

ともだちにシェアしよう!