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第50話
「………本当の名前は、何ていうんですか?」
その問いに、美羽の肩がぴくりと揺れた。
沈黙が落ちた部屋に、時計の針の音だけが静かに響く。
そして、やがて、ぽつりと小さな声が落ちた。
「……あおば。青い羽って書いて、あおば、です」
それは、自分でも驚くほど、喉の奥から自然にこぼれた。
ずっと封じてきた名前。
思い出したくも、呼ばれたくもなかった。
誠司はその名を繰り返すことなく、そっと目を細めた。
「──そんな名前だったんだ」
やわらかな声だった。
少しだけ間が空いて、それから、彼は静かに言った。
「……君は、その名前を捨てて、“美羽”として、俺の隣にいたいと思ってくれた。……それは、嘘じゃなかった?」
美羽は唇を噛んだまま、首を縦に振ることもできずに、ただ小さく呟く。
「……青羽には……いい思い出なんか、何もなかったんです。
呼ばれるたびに怯えて、叩かれるか、理不尽に怒られて……」
ぽつ、ぽつとこぼれる言葉は、涙と一緒に落ちていく。
「だから、忘れたかった。全部、なかったことにしたかった。
……“美羽”になって、あなたの隣にいることだけが、本物だって思いたかった……」
誠司は何も言わず、その姿をじっと見つめていた。
視線が熱を持って、美羽の中の“嘘”を焼くようにまっすぐだった。
「……本当のことを、教えてほしい」
その声に、また空気が張り詰めた。
「……俺に触れられるのが怖かったのは、“バレる”のが怖かったから?
それとも……他の誰かならよくて、“俺”に触れられるのが嫌だった?」
核心に触れる問い。
それは、誠司の胸をずっと締めつけていた、不安そのものだった。
「違う……っ」
立ち上がった美羽の声が震える。
「違うんです……!
誠司さんだったから、怖かったんです……!」
その言葉に、誠司の瞳が揺れる。
「……好きだったから。
触れてほしいと思ってしまうほど、好きだったから……
優しくされるたび、名前を呼ばれるたびに、心が苦しくなって……
……でも、全部嘘だったって知られたら、壊れてしまうって思って……」
美羽の頬を伝う涙が、ひとすじ、またひとすじ。
「本当は、ずっと、触れてほしかったんです……
だけど、私は、本物の女の子じゃないから──」
その瞬間、誠司の瞳がそっと細められた。
ゆっくりと一歩近づき、柔らかく問いかける。
「じゃあ……もし、俺が“全部“を知っても、
それでも君を好きでいられると言ったら──
……触れても、いい?」
その声は、静かな祈りだった。
答えを急かすこともなく、ただ、美羽のすべてを受け止めようとしていた。
美羽は、震える唇で、笑おうとする。
「……ずっと、誠司さんに触れてほしかった……
……もし、本当の私のことを知っても…傍にいられたらって、何度も…
ずっと、あなたの隣にいたいって……願ってた」
涙で濡れた声に、誠司の胸がきゅっと締めつけられる。
だが──
美羽がぽつりと続けた言葉が、空気を変えた。
「……でも、私の首には……透明な鎖がある」
「鎖……?」
「どこまで行っても、水谷さんからは逃げられない。
私は、幸せになっちゃいけない人間なんです──…」
その瞬間、誠司の顔つきが変わった。
静かに、そして迷いなく、彼は言った。
「そんなことない、美羽だって幸せになっていいんだ」
「──でも、誠司さんを騙してたんです。
「──だったら、証明させてくれないか」
「……証明?」
誠司の声は、震えていなかった。
「君は、もう“幸せになっていい”って。
もし、俺に抱かれることで、その証明ができるなら…」
その言葉は、彼なりの誓いだった。
「俺は、もう誰にも君を渡さない。
男でも、女でもどっちでも構わない…ただ、君が欲しいんだ」
──その声に、胸が強く脈打った。
唐突なんかじゃない。
ずっと、ここまで積み重ねてきた感情のすべてが、
ようやく“ひとつ”になろうとしていた。
美羽は、涙の滲んだ目のままで、小さく頷いた。
「……誠司さんが、欲しいって言ってくれるなら……
私も、あなたのものになりたい──
それが、“私の“意思だって、証明になる?」
小さな声だったけど、震えながらも、確かに届いた。
美羽の中の恐れも嘘も、もうそこにはなかった。
誠司はそっと、美羽の頬に触れた。
指先が、涙のあとをなぞるようにやさしく撫でる。
「──全部、見せてくれないか?」
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