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第51話

「……少しだけ、時間をもらえませんか?」 絞り出すような声に、誠司がきょとんと目を瞬かせた。 「──え?」 「……あの、準備が……いるので」 目を伏せる美羽に、誠司はすぐに何かを察したように、ふっと優しく微笑んだ。 「わかりました」 そして、わざとらしく咳払いをひとつしてから、照れくさそうに言った。 「僕も……会社に“体調不良”と連絡しないと」 「仮病で休むなんて、初めてです」 くすっと笑ったその顔は、どこか少年のようで、美羽は胸の奥が温かくなるのを感じていた。 ──── 風呂場からの蒸気をまとったまま、寝室に入る。 バスローブの紐を握りしめたまま、足元ばかりを見つめて歩く。 ベッドでは、誠司がこちらを静かに見つめていた。 カーテンが閉められ、やわらかな灯りに照らされたその目は、いつもよりほんの少し熱を帯びている。 「……おかえり」 その声に、喉の奥がきゅっと鳴った。 言葉にならない感情が、胸いっぱいに広がっていく。 何も言えずに近づくと、誠司がゆっくりと立ち上がり、美羽の肩に手を添えた。 その手が、静かにバスローブの合わせへと滑っていく。 ──今、触れられる。 ずっと、避けてきたこと。 けれど、今日こそは……すべてを曝け出さなければいけない。 「……だめ、やっぱり……だめ……!」 反射的に誠司の手を止めた。 震える指先が、真実を物語っていた。 「怖い……だって、幻滅されるから。 わ、私は──」 言葉を詰まらせたあと、彼女は息を吸い込んだ。 「……僕は、……男だから」 ようやく絞り出した声。 掠れたそれに、誠司の手が止まる。 (きっと……嫌われる。拒まれる) 美羽の胸を覆っていたのは、ずっとその恐怖だった。 “美羽”という偽りの皮を被った“男”── それが、本当の自分。 誠司が愛したのは“妻”という形であって、 本当の自分なんかじゃない。 ──だから、終わる。 拒絶される。その瞬間を、覚悟していた。 けれど── 「……幻滅なんて、するわけない」 静かに、そっと顔を寄せた誠司が、 美羽のこめかみに唇を落とした。 頬に。額に。顎に。 そして──ゆっくりと、唇へ。 「俺は君を、好きになったんだよ。誰よりも、ちゃんと」 そのキスは、優しくて、あたたかくて。 触れるたびに、不安の糸がほぐれていく。 そっと唇を開けば、厚くて熱い舌がぬるりと潜り込んできた。 絡まる舌先。溶けていくような呼吸。 熱い吐息が漏れる頃、誠司の手が再びバスローブの紐へと伸びる。 けれど今度は──美羽は、もうその手を止めなかった。   指先がじん、と熱を帯びる。 あの夜の、誠司の寝息を思い出す。 ──触れたいと思うだけなら、許されると思っていた。 けれど、今。 この人が全部を知ってくれた上で、それでも触れたいと思ってくれたなら。 もう、逃げない。 この身ごと、この心ごと、 ちゃんと愛されたいと思った。

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