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第55話
自分は、性欲の薄い人間だと、ずっと思っていた。
扱いて出したところで、それは何の意味も持たない、
遺伝子という“記号”を持たない、ただの液体。
無駄なもの。
――虚しい残骸。
そう思っていたから、自分で触れることも少なかった。
いや――あえて、しないようにしていたのかもしれない。
本能に負ける自分が、どこか、“醜い”と感じていたのだ。
だけど。
目の前で眠る美羽を見た瞬間、
そんな思い込みが、静かに、でも確実に――崩れていった。
白いシーツの上、やわらかな吐息を洩らして眠る身体。
色気を帯びて、潤んだ瞳。
さっきまで何度も触れたせいで、唇は少し腫れぼったくなっている。
「……」
目をそらせなかった。
白い肌には、いくつもの赤い痕が残っていた。
それは、独占欲の表れ。
誤魔化しようのない所有の印。
鎖骨の下、脇腹、太ももの内側……
――全部、自分がつけた。
誰にも渡せない。
誰のものにもしたくない。
それは、子を望めないこの身体であっても、
確かに“欲”が、生きている証。
「……美羽……」
掠れる声で名前を呼ぶ。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
俺の中でずっと“役に立たない”と切り離していた欲望が、
今、こんなにも静かに、でも確かに――
「愛しい」という言葉とともに、蘇っている。
これが、ただの性欲じゃないことは、もう知っている。
君を、ただ“抱きたい”んじゃない。
君と繋がっていたい。
言葉じゃ足りない。
肌でも足りない。
だから、どこまでも深く、“愛”の形で欲しい。
そう思えるのは――
俺の全てを、受け入れてくれる君が、そこにいるから。
足の指先へのキスは、
“崇拝”の証であると、どこかで読んだことがあった。
最も低く、最も遠い場所。
だからこそ、そこに触れるということは、
相手を“上位の存在”として受け入れること──
そんな意味があるのだと。
それを読んだとき、俺はふと、
「そこまで誰かを想える日が来るのだろうか」と思った。
正直に言えば、足にキスをすることには抵抗があった。
清潔、不潔という単語ではなく、もっと根深い、本能的な距離感の拒否。
けれど──
今、俺の唇は、迷いもなく、美羽の足の指先に触れていた。
その細くて、可憐な指が、先ほど快楽に反応してきゅっと丸まったことを思い出しながら。
「……不思議だな」
違和感も、ためらいもない。
むしろ、触れることで満たされていく。
そう――敬うように。だけど、それだけじゃない。
「……これは……崇拝なのかな」
そっと、もう一度、右足の薬指に唇を寄せる。
ふ、と熱い吐息が絡まる。
柔らかくて、あたたかくて、
でも、その行為に“神聖さ”を感じていたわけじゃない。
美羽の“身体のすべて”が、
どこもかしこも、僕の愛する場所になったというだけのこと。
肌に口づけることが、
心に手を差し伸べることと、同じ意味を持つようになっていた。
美羽の指。脚。腰。胸。首。唇。
そして、足先までも。
「全部、全部……愛しいって思ってる」
囁いた自分の声が、やけに響いた気がした。
これは──崇拝なんかじゃない。
たぶん、もっと“等しい”ものだ。
君が俺を受け入れてくれた分だけ、
俺も君の全てを抱きしめていたいと思う、それだけ。
愛せる。
隅々まで、全部を。
それが、“ただの欲”とは違うことを、
今の俺は、ちゃんと知っていた。
────
夢のようだった。
でも、確かにあった。
誠司さんの熱。
重なった身体。
何もかもが、心の奥まで震わせて──
……なのに。
目を開けたとたん、
胸の奥が、キュッと小さく締めつけられた。
涙が、零れていた。
理由なんて、すぐにわかった。
誠司さんの腕が、もう僕の中にない。
あの熱も、鼓動も、深く繋がっていた感覚も、
──すべて、“身体の外側”に戻ってしまった。
それだけのことなのに、
こんなにも切なくて、
まるで、大切なものをどこかに置き忘れてきたような──
そんな気持ちに襲われる。
「……誠司、さん……」
声がかすれて、自分でも驚く。
まだ、身体がふわふわしている。
皮膚の奥に、微熱が残っている。
その熱が、喪失を余計に浮き彫りにした。
──さみしい。
ただ、それだけだった。
でも、それだけがどうしようもなくて。
喉の奥から、すすり泣くような声が漏れる。
誠司さんに、もう一度、触れられたい。
キスが欲しい。
抱きしめられたい。
──中に、いてほしい。
「……また、ほしい……」
自分が、どれほどの幸福に包まれていたか、
それが終わってしまったことが、ようやく理解できた。
初めてだった。
誰かを欲しくて、
求めた分だけ、与えられる──そんな幸福を知ってしまったのは。
もう、戻れない。
知ってしまったから。
味わってしまったから。
あの“満たされる感覚”を。
胸の奥が、じりじりと焦げるように熱い。
「誠司さん……どこ……?」
シーツを握る手が、まだ震えている。
足先に、うっすらと唇の感触が残っていた。
それだけが、唯一の救い。
けれど──
もっと欲しかった。
何度でも、抱きしめてほしかった。
名前を呼んでほしかった。
君は“美羽”だって、もう一度、確かめてほしかった。
喉がつまって、息が苦しい。
でも──
きっと、誠司さんなら、気づいてくれる。
この涙も、震える指も、
ちゃんと──もう“受け止めてもらえる”って、知ってしまったから。
涙の感触が頬を伝っていた。
目を開けてすぐ、誠司さんがその涙を拭ってくれた。
その手のぬくもりに、
張り詰めていたものがふっと緩んで、
「……あ……」と息が漏れた。
次の瞬間、胸元に抱き寄せられて──
誠司さんの腕の中に、僕はすっぽりと包まれた。
その暖かさに、全身が沈み込んでいく。
手のひらで、背中をぽん、とやさしく撫でられるたびに、
波の音のように、静かに、心がほぐれていくのを感じた。
「……ふぅ……」
長く息を吐き出して、初めて気がついた──
僕の指先が、冷たくなっていたこと。
「……さむい……」
ぽつりとこぼした声に、誠司さんが僕の手を両手で包み込んでくれた。
それだけで、全身がじんわりと温かくなる。
「大丈夫……もう、大丈夫だから……」
その囁きは、まるで魔法のようだった。
──ずっと、僕の首には“透明な鎖”があった。
何をしても、誰に触れられても、
いつかまた、“あの場所”に引きずり戻されるような気がして。
自分で、自分を縛っていた。
海の底。
音もなく、冷たく、息ができない場所。
そこから、逃げたはずだったのに──
誠司さんに出会うまでは、
ずっとその水面で、必死に踠いていた気がする。
でも──
誠司さんの腕の中にいると、その鎖が、不思議と感じられなくなる。
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