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第56話

荒く吐き出した息が、喉の奥に残る。 全身に残る余韻とともに、ゆっくりと誠司さんの熱が、僕の中から抜けていく。 その瞬間── あれほど焦がれていたものが、少しずつ“焦燥”ではなく、“安堵”に変わっていくのを感じた。 「……ふぅ……」 身体がゆっくりと弛緩していく。 長い間張りつめていた糸が、ぷつりと切れたようだった。 その時。 誠司さんの手が、僕の頬に触れる。 あたたかくて、優しい。 けれど、その指は迷わずに、僕の濡れた喉元へと滑っていった。 「……前に言ってたよね。 君の首には、“透明な鎖”があるって」 その言葉に、息が止まった。 指先が、まるでその鎖をなぞるように、喉仏の上をすっと撫でる。 もう消えたはずの“重さ”が、そこに蘇ったようだった。 「……俺がその鎖、切ってあげようか?」 僕は――瞬きすらできなかった。 「誠司……さん……?」 ゆっくりと目を見開くと、誠司さんはどこまでも静かに、でも確かに、僕を見つめていた。 「君のいた施設の……水谷が、その鎖の正体なんだろ?」 “さん”のつかない名前呼びに、一瞬驚く。 でもそれは、誠司さんがその人間を「対等に扱う価値もない」と判断した証だった。 「……うん……」 喉の奥で、小さく返す。 言葉は重かったけど、それでも――誠司さんの前なら、言えた。 「美羽に性別を偽らせてマッチングにかけた行為は、法的には“犯罪”として立件できる」 「……っ……」 「けど君が望むなら、別の選択肢もある」 「選択肢……?」 「“二度と美羽の人生に関わらない”って誓約を、水谷から取りつける。 文書化して、法的拘束力を持たせる。 それがあれば、水谷は君に一切近づけなくなる。」 目の奥が熱くなった。 誠司さんは、僕に“選ばせて”くれる。 守る方法さえも、強制しない。 「……君の人生は、まだこれからだ。 だから俺が、その“スタート”を邪魔する鎖を、この手で断ち切りたい」 胸が、震えた。 痛みじゃない。未来の希望に、心が震えた。 「もう、青羽には戻れなくなる──それでもいいなら」 「……お願い、切って」 そう口にした瞬間、誠司さんの両手が、そっと僕の頬を包んだ。 指先のぬくもりが、“俺に任せていい”と語っているようだった。 「わかった。なら……すぐ、法的な手続きを調べてみる」 その言葉に、僕は思わず目を見張った。 “法的手続き” “文書” そんな方法があることすら、知らなかった。 「……そんなの、できるんだ……?」 「簡単じゃない。でも、できるよ。 俺たちが本気だって伝われば、水谷は動けなくなる」 “知ってる”ということが、こんなにも強いんだと思った。 僕はなにも知らなかった。 ただ生きることで精一杯で、誰かに抗う方法なんて、考えたこともなかった。 でも誠司さんは、そんな“無知”を責めたりしない。 代わりに、自分の“知ってる”を武器にして、僕を守ってくれる。 「……すごいね、誠司さん……」 呟いたその声に、誠司さんは少しだけ笑って、スマホを手に取った。 ゆっくりとベッドに座り直す音。 僕はためらいもなく、その背中にぴたりとくっついた。 裸のまま。 でも、不思議と恥ずかしくなかった。 冷たい世界には、もう戻らないと思える背中だった。 「……何を検索してるの?」 「“接近禁止命令”とか、“内容証明の作成代行”とか。 あとは、手続きに詳しい弁護士がいれば……そっちにも相談する」 スマホの画面を見ながら淡々と話す声が、僕の心に静かに染みていく。 この人は、僕を“救う”んじゃない。 “隣で一緒に生きよう”としてくれているんだ。 「……ありがとう、誠司さん……」 囁くように言った言葉に、誠司さんの指がぴたりと止まる。 けれど振り返らずに、彼は静かに言った。 「……切るからね。君を縛るものは、俺が全部、切るから」 その言葉が、涙じゃなくて、心そのものを震わせた。 僕の首に巻かれていた鎖は、もうすぐ消える。 だけど、もう少しだけ――この背中に、くっついていたいと思った。   ────  美羽が背中にぴたりとくっついている。 その体温が、こんなにも愛おしいのに―― 胸のどこかが、ずっと冷えていた。 スマホの画面を見つめるふりをしながら、 僕は気づかないふりをしていた感情と、静かに向き合っていた。   ……この子が、僕の腕の中にいるのは、“今だけ”かもしれない。 そう思った瞬間、指が止まる。 「逃げる場所がないから、今はここにいるだけ」 誰にも言えなかったその想いが、心の中で、静かに形になっていく。   本当は、“透明な鎖”を断ち切る存在になりたかった。 でも、もし── その鎖の一部が、“俺の手”だったとしたら?   ……俺といることが、“自由”じゃないなら。   「……全部終わったら、手を離さなきゃ」 声には出せない。 でも、胸の中でその言葉を噛みしめる。 「切る」と言ったのは、俺だ。 だから、もしも美羽が本当に自由になった時、 その自由が“俺のもとから離れること”なら── 俺はそれを、笑って送り出さなきゃいけない。 どれだけ、愛していても。   それが、“誠実”ということだと思った。 だから今は、何も言わない。 美羽の温もりを背中に感じながら、 ただ静かに、未来のために、僕は手を動かし続ける。

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