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第57話

いくつかの夜を越えた。 朝になれば、キスを交わし。 昼にはそれぞれの立場で時間を過ごし。 夜になれば、またキスをして、 そのまま触れ合い、熱を重ね、 汗と吐息に包まれたまま、ゆっくりと眠る。 そんな日々が、繰り返されていた。 それが、夢のように穏やかで、幸せで、 だからこそ――僕は、怖かった。 「このままずっと、こうしていられたらいいのに」 そんなことを何度も思った。 でもそれは、口には出さなかった。 いつか“終わる”かもしれないという不安が、 どこかにずっとあったから。 そしてその日が──訪れた。 ⸻ 誠司さんが、「終わったよ」と言った。 水谷との件について、公正証書が作成され、水谷に送られたことを告げられた。 しばらくして、誠司さんのもとに返信が届いた。 水谷は── 誠司さんの提案に、従うと返答したという。 僕の中に、ひとつの音が鳴った。 「……ぁ……」 それは、鎖の外れる音だった。 透明なものだったからこそ、 見えない苦しさがずっと喉に絡みついていた。 でも今、確かに――それが“ほどけた”。 身体がふわりと軽くなる。 でも、心の奥に残った何かが、熱くなって、滲み出して―― 涙が、頬をつたった。 「……ありがとう……誠司さん……ほんとに……ありがとう……」 嗚咽のような声になった。 そのまま、誠司さんの胸にすがろうとした――その時だった。 彼は静かに、 何かの紙を、僕の目の前に差し出した。 「……美羽、これ」 視線を落とした瞬間、 心臓が、ズキンと音を立てた。 ──離婚届。 そこには、 誠司さんの名前と印が、すでに記入されていた。 「……え……?」 声が出なかった。 「これが、君を縛る最後の“鎖”だよ」 誠司さんは、静かに笑っていた。 「全部が終わったら、君はもう、俺の手を離れてもいい。 自由になった君を、俺が縛ることはできない」 「……誠司、さん……?」 「これからは、君の人生を、君自身の手で選んでいいんだ」 その声はやさしかった。 でも――それが、どうしようもなく残酷だった。 「やだ……っ、やだよ……」 息が詰まりそうだった。 言葉にならないまま、 僕はただ――首を横に振るしかなかった。 こんな日が来るなんて、 想像したことなんて、なかったのに。 「……これは、君が自由になるために必要なことなんだ」 そう言い終える前に、 美羽の瞳が、大きく見開かれた。 涙が、ぽろぽろと零れて止まらなかった。 「どうして……その手を、離そうとするの……?」 声は震えていた。 でも、はっきりと誠司に向けられていた。 「僕は……誠司さんの手以外、欲しくなんかないのに……!」 僕の心臓が、強く一度だけ跳ねた。 「もしかして……本当は、僕のこと、いらないって思ってたの? ……あんなに、求めてくれたのに……嘘だったんだ…? ──全部、全部嘘だったんだ!?」 「美羽……違う、違うんだ……!」 「僕を捨てるために、優しくしてくれたの…?」 立ち上がろうとした誠司を置いて、 美羽は、ふら……と、 まるで重力からも感情からも解き放たれたように、窓辺に向かった。 「待って……!」 足音が響くより早く、 美羽の指先が、窓の鍵に触れていた。 「分からない……分からないよ、誠司さんの気持ちなんて……!」 そのまま、窓を開け放つ。 朝の風が、カーテンを大きく膨らませて吹き込む。 光とともに、美羽の髪が揺れた。 そして、美羽の足が、窓の縁にかかる―― その瞬間、 「──美羽ッ!!」 俺は叫んでいた。 血の気が引くどころか、 全身からすべての感覚が失われた気がした。 ここはマンションの15階だ。 落ちれば無事でいられるはずがない。 気づけば、窓辺に駆け寄っていて、 その細い身体を強く、強く抱きしめていた。 「だめだ……!!行くな……っ!!」 引き寄せた美羽の身体が、震えていた。 小刻みに、熱をもって、震えていた。 「……君がいらないわけがない……! 大切だからだよ……! 君を縛っちゃいけないって……思ったから……!」 「嘘だ…嘘だよ!…そんなの嘘だ!! 僕がいらなくなったんでしょ!? 優しい言葉に隠してるだけだ…!」 「嘘じゃない……!!俺が、間違ってた……!」 その場に膝をつくようにして、美羽を抱きしめた。 指が震えていた。腕が、力を入れすぎていた。 でも、離せなかった。 「俺は、美羽が“いなくなっていい”なんて、一度も思ったことなんかない! 君が“幸せになれるなら”って…… ……ただ、それだけだったんだよ……!」 美羽が、黙っていた。 でも、その胸の奥から、くぐもった声が漏れる。 「……誠司さんがいないと、僕……何もないよ…… …僕には、やりたいことも、夢も 誠司さん以外に、なんにもないんだよ……!」 「──いるよ。俺は、ここにいる。ずっと、美羽の隣にいる。 許してくれるなら……!」 涙が止まらなかった。 どちらの涙かも、もう分からなかった。 窓から吹き込む風の中で、 ようやく──僕は誠司さんと、ちゃんと手を繋げた気がした。 窓から引き戻された身体を、誠司さんの腕が抱きしめている。 苦しくて、でも、あたたかくて。 だけど、心の奥にまだ、どうしようもない不安が渦巻いていた。 離婚届―― あの紙一枚が、僕の存在を否定するものに見えた。 「……誠司さん……」 床に座り込んだまま、僕は震える声で言った。 「それ……破って…」 一瞬、誠司さんの動きが止まる。 僕は目を逸らさなかった。 その手に握られた“終わりの紙”を、じっと見つめた。 「それを捨てて……僕と生きるって、誓って」 「……美羽……」 「僕を守るって言ったよね? 僕が欲しいのは“自由”じゃない。 “誠司さんとの未来“なんだよ…!!」 息が詰まりそうだった。 でも、はっきり言った。 「……誠司さん、僕を捨てないで。 優しさで手放すくらいなら、抱きしめて。 僕を“選んで”……!」 目からは涙が溢れ続ける。 でもそれでも、離さなかった。 「僕がここにいるのは、逃げ場がないからじゃない。 ……ここが、僕の帰る場所だから……!! 僕に居場所を作ってくれたの…誠司さんでしょ……!?」 窓から吹く風が冷たい。 でも誠司さんの手の温度だけが、 今の僕を、命のある存在に繋ぎとめてくれていた。 「……捨ててよ、その紙……」 「……」 「僕と生きたいって、言ってよ…!!」 その言葉が、静かに、強く響いた。 美羽の言葉が、胸の奥に突き刺さった。 「僕と生きるって、誓って」 「ここが、僕の帰る場所だから」 「誠司さんと生きたいの」 それは、 助けてほしいという泣き言じゃなかった。 愛しているという、真っ直ぐな叫びだった。 俺は、手の中にある紙を見下ろした。 整った罫線と、俺の署名。 けれどそれは、 美羽に「自由を渡す」つもりで差し出した“誤った優しさ”だった。 「……俺がバカだった」 かすれた声が、自然に漏れた。 「こんなものに、“終わり”を預けようとしたなんて……」 次の瞬間、 誠司さんはその紙を、力強く、ビリビリに破いた。 静かな部屋に、紙が裂ける音が響く。 そして、俺は破り捨てた紙を手から落として、美羽の手を握った。 「……ここから、やり直そう」 「……誠司さん……」 「ここから、本当の夫婦になろう、美羽。 名前でも制度でもなく―― 心で繋がって、生きていく夫婦に」 美羽の瞳が潤み、頬を伝う涙が光った。 「……うん」 小さく、でも震えない声だった。 「うん、僕も…… 誠司さんと……夫婦になりたい」 手を強く握る。 ふたりの手の温度が、やっとひとつになった。 さっきまで、“終わり”だった紙片の代わりに、 今この瞬間――ふたりだけの始まりが、生まれた。

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