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第4話 心の傷②
静まり返った個室ほど居心地の悪い空間はない。日中、突き放されたばかりだ。
きっと陽菜から黒川にセッティングを頼んだと思われているだろう。
凌駕が番解消を拒む理由は黒川が教えてくれると思っていただけに、陽菜も動揺を隠せず、膝に乗せた拳は汗ばんで小刻みに震えている。
凌駕の顔を見るとこもできず、焦りで何も考えられないでいた。
目の前で「ふぅ」と大袈裟なまでに大きなため息を吐かれ、びくりと肩を戦慄かせる。
凌駕が口を開いたのが分かったが、店員が注文を取りに来たため、凌駕も帰るのを諦めたようだった。決して陽菜に向き合おうとしたのではないが、黒川が言っていた「二人で反省した」というのが本当ならば、日中よりは取り合ってくれるのだろうか。
「あの、昼間は一方的に詰め寄ってすみませんでした」
居た堪れなくて陽菜から声をかける。
「あ、いや……それは……」
もどかしそうに凌駕は言葉を濁した。
一度、深呼吸をすると、今度こそ陽菜に向き合う決心を固めたようだ。背筋を伸ばし、頭を下げる。
「日中は取り乱してすまなかった。頸を噛んだとちゃんと認める。その上で、言い訳にしかならないが話を聞いてもらえるか?」
「勿論です。僕も唐突に同意書への署名だけを頼んでしまって。まずはちゃんと話し合う時間を設けるべきだったと反省しました。黒川さんと話をしているうちに、望月先輩のことを少しでも知りたいと思ったんです。話せる範囲でいいので、聞きたいです」
頸を噛んだことを認めてくれた。
あまり接点のなかった二人がいきなり番になってしまい、焦ったのもお互い様だ。
しかし凌駕なら、話し合えばきっと冷静になってくれる。そんな風に思っていた。
凌駕は一口ビールを口に運ぶと、静かに話し始めた。
「俺には番がいた」
想像もしていなかった一言に、陽菜は瞠目として凌駕の顔を見た。目は合わなかった。凌駕の視線はビールジョッキから流れる泡に向けられていた。
陽菜を意識的に見ないようにしているのだろう。
仕事中の活き活きとした凌駕は、今ここにいない。過去形で始まったその言葉だけで、大きな傷を抱えているとは容易く予想できた。
陽菜は瞬きも忘れ、凌駕の次の言葉に耳を傾ける。
「相手はインターンで出会った学生だった。東雲と同じようにベータだと偽っていたが、俺にだけはオメガだと打ち明けてくれた。四週間の間に急速に距離を縮め、その後もその子との関係は続いた。恋人になるまで時間はかからなかった。番になったのも自然の流れで、結婚まで考えていた。でも……」
そこで黙り込んでしまった。続く言葉は、きっと凌駕が番解消を拒否した原因なのは確実だった。なので陽菜は、ここで凌駕が話すのをやめてしまっても責める気にはなれなかった。
再び沈黙になったが、さっきとは違う空気が流れている。
こんなにも弱い部分を見せてくれるとは思いもよらず、肩の力は抜けていた。緊張よりも、今は心配の気持ちが勝っている。
「相手に、運命の番が現れたんだ」
なるべく冷静を装い凌駕は話しを再開した。
「番になっていても関係ないほど、運命の番の引力は強かった。そのアルファは番と……誠 と同じ大学に通ってるやつで、俺が迎えに行った時、偶然近くに居合わせたんだ。誠はそいつと目が合った瞬間、俺の手を振り解いて走り去った。止めることも出来なかった。誠からその日のうちに別れたいと言われたよ。でもお互い冷静になろうと距離を置いた。なのに……なのに、誠が出した結論は番解消だった」
数年前の話かと思いきや最近の話だと知り、陽菜はさらに驚いた。
「東雲がヒートを起こした時、オメガのフェロモンの匂いが体内に流れ込んできて、誠が本当に手術を受けたんだって思い知らされた。同意書は誰か別のやつに頼んで書いてもらったんだろうな。幸せだった日々が幻のように思えて、でも頭のどこかでは、寄りを戻せるんじゃないかって期待していた自分に気付いた。そしてそれが叶わないと知った瞬間が、東雲のフェロモンが匂ったタイミングだった。むしゃくしゃして、八つ当たりするみたいに抱いてしまった。本当に申し訳ない」
凌駕は深く頭を下げて謝罪した。
「やめて、ください」
嗚咽を漏らしながら喋った陽菜に、凌駕は驚いて顔を上げる。
「なぜ東雲が泣いているんだ」
「だって、そんなの……一方的過ぎます」
好き同士だった二人が、運命の番が現れた途端、簡単に壊れてしまうものなのか。
しかもアルファは同じ大学とはいえ、面識もなかった者同士である。
凌駕は上司として素晴らしい人だ。私生活でもきっとそうだろう。誠との愛を大切に育んでいたに違いない。
その証拠に、誠は自分の元に戻ってきてくれると信じて待っていた。
けれど希望は失われてしまった。その上、追い討ちをかけるように陽菜からも「番解消」を言い渡された。
知らなかったとはいえ、凌駕の為だと驕っていた自分が悔しい。
凌駕は自暴自棄に陥るほど辟易としていた。誰からも頼られないアルファだと、卑下するほどに。
陽菜は、凌駕を一人にしてはいけないような気がした。自殺などする人ではないが、弱音を吐ける場所が必要なのではないか。甘えられる人が必要なのではないかと思ったのだ。
例え陽菜が傍にいたところで、何も出来ないかもしれない。でも番になったのも縁だと思いたい。凌駕の傷が癒えるまでで良い。
断られても構わない。でも言わずにはいられない。
「僕を、望月先輩の傍でいさせてくれませんか?」
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