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第7話 優しくしないで①

 穏やかな時間を過ごしているが、凌駕が誠への想いを断ち切っているわけではない。  それは視界の端々に映り込んでくる。  二本ある歯ブラシや、ライン使いされてる基礎化粧品の隣に、一つだけ置かれているチープなオールインワンゲル。タオルも数枚だけが柄物で違和感を放っている。  凌駕はある程度統一感のある視界を好んでいるようだが、そこに入り込む恋人の気配も気に入っていたのだろう。  意識的に見ないように心がけていても、どうしても目に入ってしまう。  流石にシャンプーやボディソープは一種類しかなくて、こんなことで安堵してしまった。 「別に恋人になったわけじゃないのに」  シャワーを浴びながら呟く。  例え凌駕が誠の物を処分しなかったとして、陽菜には文句の一つも言う権利はない。嫉妬するのも勝手だ。  洗面所にあった基礎化粧品は陽菜たちの務める会社のものだった。自社製品の中でも最も高価なシリーズだが、シャンプーやボディソープは他社のものである。仕事上の付き合いで購入したのか、もしくは得意先からプレゼントされたのかもしれない。  ほんのりと香るジャスミンやムスクの匂いからは、大人の色気が漂っているように感じる。  自分から凌駕と同じ匂いがするのはむず痒い。無理して背伸びをしているみたいだ。  これまでは楽しく過ごせたが、明日帰るまでヒートを起こさないか、心配は常に隣り合わせでどことなく落ち着かない。  同じ会社に勤めているとはいえ、住んでるマンションでさえこの格差である。 「……不釣り合い……だよなぁ」  浴槽に体を沈め、ぼんやりと天井を眺めた。  でも誠は学生と言っていたっけ。あまり身分や歳の差は気にしないのかも……なんて、別れた恋人を例に上げて救いを求めても、それが凌駕から選ばれる基準にはならない。誠はどんな人だろうと、そこはかとなく考えてしまう。どんな人だったから凌駕に見初めてもらえたのか、気になるのは仕方ない。  一人になると不安が次々と溢れてきて、凌駕の許へと戻ることにした。 「早かったな」 「いえ、充分温まりました。ありがとうございました」 「畏まらなくていい。こっち、座って」  凌駕がドライヤーを持っているのに気付き、慌てて手を振る。 「自分で出来ますから」 「俺がやりたいんだ。ほら、早く」 「し……つれいします……」  凌駕は恋人を甘やかすのが好きなようだ。  誠にもしていたのだろうと思った。もしかすると、一緒に風呂に入って髪も洗ってあげていたかもしれない。  (嫌だな……)  勝手に想像して、勝手に傷つく。  優しく髪に触れる指がくすぐったい。美容師さながらの手つきに、触れられたところがじんと熱を持っていく。  凌駕の恋人になれたら、毎日こんなに尽くされるのだと思うと、陽菜は自分の中に芽生えた欲を無視できなくなっていった。  駄目だ、と何度も自分に言い聞かせる。  凌駕の失恋の傷が癒えるまでの関係だ。その後陽菜は番解消の手術を受け、元の上司と部下という関係に戻る。たまに喋るタイミングはあるだろうが、こんな風に自宅マンションに招待されることもなくなるのだ。  凌駕ともなれば、直ぐに新しい恋人ができるに違いない。  陽菜が側にいられる時間は、思っているよりもずっと短いかもしれない。  それならば存分に甘えたいと思う反面、癖になる前にやめた方がいいと戒める自分もいる。  それでも凌駕の好意を無碍にできるはずもなく、大人しく髪を乾かしてもらうのだが、手放しで喜べないのはやはり悲しい。  凌駕はドライヤーをテーブルに置くと、無言のまま頸を掠めるように撫でた。  ピクリと反応してしまう。そうだ、髪を乾かしている間、凌駕は自分で刻んだ噛み痕を見ていたのだ。  陽菜はてっきり凌駕から噛んだことを謝られるかもしれないと身構えた。それだけはしてほしくない。あれは事故のようなもので、凌駕が番になりたいわけではなかったのは承知の上だ。  それでも度重なる謝罪に、どんどん自分が惨めに思えてくる。陽菜がヒートを起こさなければ、こんな展開にもなっていないし、必要とされることも無かったと、その都度自覚を強いられるのだ。  ただの八つ当たりで頸を噛んだと受け止めたが、この数時間だけで凌駕へ強く惹かれている陽菜は、凌駕の言葉の一つ一つに敏感に反応してしまう。  そんな凌駕の口から溢れた言葉は「ありがとう」だった。 「何故、お礼なんか」 「嫌われて当然の行為をしたのに、今、ここにいてくれているのが嬉しいんだ」  凌駕が後ろから陽菜の腹部に腕を回す。  包み込むように抱き寄せられ、凌駕は陽菜の首元に顔を埋めた。  きっと責任を感じているのだろう。凌駕は鼻先を歯型のある部分に擦りつけ「甘い」と言った。 「そうだ、僕、抑制剤を飲まないといけません」 「俺も、飲んでおくよ。もう襲いたくはないから」  凌駕は立ち上がってキッチンへと向かう。  陽菜は膝を立て、脚を抱え込んだ。やはり凌駕は陽菜と身体の関係を持ったことを後悔している。今夜はきっと、陽菜の突拍子もない申し出に応えることで詫びているのだ。  逆に気を使わせてしまった。明日はなるべく早く帰ろうと思った。  薬を飲むと、凌駕は風呂に入りに行く。  その間に、明日速やかに帰れるよう荷物をまとめておいた。 「コンビニで靴下も買っておけば良かった」  シャツは着られても靴下は気持ち悪い。裸足の方がマシかと呟く。  ラグに座ったままソファーに凭れると、番解消の件はどうなるのだろうと考える。  次は凌駕から言い出してくれなければ、同じセリフで怒らせたくはない。言い出すタイミングは凌駕にしか測れない。  このまま恋人になれる見込みは……考えたくもない。  アルコールが入っていたこともあり、陽菜はウトウトと目を(しばた)かせた。  ソファーによじ登り、身を屈ませる。自分家のシングルサイズのベッドよりも寝心地が良い。  凌駕に優しくされるほど辛くなる気がした。先に寝てしまったのは得策だったかもしれない。  春先の夜はまだ肌寒く、布団がないため寝ながら少し震えた。

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