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第11話 凌駕の嫉妬①

 翌朝、始発の電車に揺られながら、まだ夢見心地でいた。  発情期が明けたタイミングで再び体の関係になるのは良いとは思えない。それこそ、オメガという第二次性を武器に近付いたと思われても仕方ない。  側にいたいと思ったのに他意はないからこそ、ヒートを起こしたくはなかった。  凌駕も同じように、陽菜とのセックスを望んでいたとは思えない。夜に抑制剤を飲む程の念の入れようだ。それでも陽菜のヒートには抗えなかった。行為中に誠の名前で呼ばれなかったのは心が救われる。これで元番の名前を聞いたものなら、気が動転していたに違いない。    薬を飲んでいたにもかかわらず、凌駕の匂いにオメガの性が反応してしまったのは、きっと普段飲んでいる抑制剤よりも弱いものを服用したからだと、冷静になった今では判断できる。  基本的に、会社を休むレベルの発情期中に薬は飲まないようにしている。マンションの部屋から出ないし、一番の理由は副作用で気分が悪く、吐き気を催すからだ。  ただでさえ食欲もなくなる。水分補給も気にしていなければ脱水症状直前まで忘れてしまう。  その上、薬の副作用まで加われば毎回入院しなければならない程の体調不良に見舞われるのだ。  発情期が明けたすぐは薬の効きも良いし、胃を労わりたいのもあって弱い抑制剤に変えている。  今回は丸一週間休んだため、久しぶりに服用した抑制剤だった。  会社では問題なく過ごせたから油断してしまった。凌駕へは誰よりも慎重にならなければいけなかったのに。  それでも終始離れず過ごした週末は、陽菜にとって至福でしかなかった。  何度も重ねた体は、凌駕の全てを刻み込まれたような気持ちになる。番になったのだから、他のアルファに陽菜の匂いは届かないのに、牽制するようにマーキングされた。陽菜からは、他のアルファが嫌厭するほど凌駕の匂いが漂っているに違いない。  少しくらいは優越感に浸っても良いだろうか。まだ凌駕の温もりを感じる。  深入りしない方がいいとは思っても、心は裏腹だ。こんなにも凌駕で頭がいっぱいになっている。  凌駕は今夜も陽菜を抱くのだろうか。  朝からそんなことを考えてしまい、冷静さを取り戻すのに苦労した。  着替えを済ませると、いつもより早くマンションを出た。  朝食はコンビニでサンドウィッチを買った。早い時間帯の電車は空いていて、ゆったりと座ると窓の外に目を向ける。流れていく景色は味気ないもので、思考の猶予を与えられてはやはり凌駕のことばかり考えてしまう。  予想だにしない怒涛の展開に、本当に流されて良かったのかと考えなくもない。居酒屋の後、凌駕のマンションへ移動し、そのまま週末を過ごす……突拍子もない行動を断れず、ダラダラと引き摺られた感じは否めない。  楽しかったかと聞かれたら、それはもう、楽しいなんてものじゃなかった。  あんなにも欲のまま求められるなど、人生で経験がなかった。オメガという厄介な性でも受け入れてもらえたし、必要としてもらえるのだと心も体も全てで感じられた。  アルファで仕事でも実力のある凌駕が、恋愛においても適当じゃなかったのも嬉しかった。性欲を発散させるのが目的なら、何しも相手は陽菜でなくて構わない。自分が選ばれたなんて烏滸がましい考えはないが、胸の内を晒せるくらいの信頼は得たと思いたい。  誠との別れから立ち直れば、陽菜と凌駕の関係は変わるだろう。それでも求められるうちは応えたい。この気持ちの正体はなんだか分からないが、陽菜の感情を温めてくれる大切なものには違いなかった。    週末の、凌駕の雄の姿を思い出すと、仕事中にヒートを起こしそうで怖い。  頭を横に振って我に戻った。  大丈夫、マンションで普段飲んでいる強い方の抑制剤を服用してきた。  もう会社でヘマはしない。  気合いを入れ直し、営業部へと向かう。自分の席にカバンを置くと、休憩スペースで朝食を食べた。  凌駕に抱き潰された身体には、気怠い疲労が溜まっている。  ソファーの背凭れに身を預け、温かいココアを啜る。ほろ苦くて甘い。今の二人の関係とよく似ていると陽菜は思った。 「東雲〜、おはよう」  出社してきた|高槻慶吾《たかつきけいご》が大きく手を振りながら近付き、隣に座る。 「おはようございます。高槻さん」 「っていうか顔が火照ってない? もしかして、まだ体調万全じゃないんじゃないか?」 「いえ、もうすっかり大丈夫です。あったかいココアを飲んでるからかも」 「本当かぁ? ウチの陽菜鳥はすぐ無茶しちゃうからなぁ。季節外れのインフルとか災難だったよな」  高槻は陽菜のOJTを担当してくれていた先輩で、二つ年上のベータだ。研修は終わったとはいえ、現在も同じチームで仕事をしている。  高槻にとっても陽菜は初めての後輩で、いきなり自分が教育係になるとは思っていなかったようだ。今でこそ一番仲がいい先輩だが、最初はカナリ警戒されていた。   『今は、か弱い陽菜鳥だけど、立派に巣立って俺の教育がいかに素晴らしかったかを上司に報告してくれよ』なんて口癖のように言われていたが、今では『離れていくな。巣立っていくな』が口癖だ。  陽菜が突然一週間も休み、体調不良を気づけなかったのを悔やんでいる。先週の金曜日も、黒川との約束がなければ、きっと早退させられていただろう。 「病み上がりなんだから無理するなよ」 「大丈夫ですって。それより、朝一番はデザイン課とのミーティングですよ」 「そうだけど。ちょっとでも何かあったら直ぐに言えよ」 「心配しすぎなんですって。でも高槻さんに風邪が移らなくて良かったです」 「なんだよ。陽菜鳥の病気なんて喜んでもらってやるって。一回チューしとくか?」 「あはは、しません」  抱きついて頬に口付けようとする高槻を、遠慮なく押し退ける。  他の人には無礼なことでも、高槻にはそうならない関係性に助けられている。    高槻にオメガ性を隠しているのは心苦しい。  明るくて面倒見が良くて、営業だって高槻のおかげでみるみる契約が取れるようになった。  普段はお調子者だけど、持ち前の社交性と思い切りの良さ、説明の分かりやすさ、フットワークの軽さ……何をとっても勉強になる。  そんな高槻も、陽菜が来るまでは新人枠だった。なので、突然OJTを任された時はいつまでも新人気分ではいられないと、焦って関連本を読み漁ったと、笑い話として話してくれた。 『でもさ、初めての後輩が陽菜鳥で本当に良かった。先輩なんて柄じゃないから普通に呼んでくれ』  人懐っこい笑顔は大型犬のようで、人見知りをしがちな陽菜も直ぐに打ち解けられた。  それでもオメガとは言えない。きっと高槻は過度に気を遣う。一週間も休んだ理由は、この先も嘘をつき通さなければならない。 「陽菜鳥、ぼーっとしてるぞ」 「ごめんなさい。考え事してて」 「悩める陽菜鳥〜! しょうがない、頼れる大先輩であるこの私が何か奢ってやろう。何がいい?」 「本当ですか? じゃあ……ココアもう一杯飲みたいです」 「おまっ、そんなちっちぇこと言うなよ。ランチとか、飲みに連れて行けとか、なんかあるだろ。せめて元気が出るやつにしろよ」 「うーん……、では、お言葉に甘えて焼肉で」 「いいね、焼肉。今夜行っちゃう? 明日、外回りだけど」 「今夜……はい、是非」  高槻の好意を無碍にも出来ず了承したが、今夜も凌駕のマンションに呼ばれているのを忘れたわけではない。社交辞令か本気か……冷静になると判断し兼ねる。週末ずっと凌駕と二人きりで過ごしたのに、今日も続けて行ってもいいのだろうか。自分がこんなにも優柔不断だとは知らなかった。いや、凌駕が絡んだ途端にそうなってしまう。  (まぁ、ご飯くらいは大丈夫だよね) 「高い肉食べます」 「おー食え食え! 食って体力つけないとな」  肩を組んで頭を悪戯に掻き乱す。 「やめてください。セットが乱れる」 「陽菜鳥が可愛いすぎるのがいけないんだ。可愛い過ぎて離したくない」  本当に先輩とは思えない時がよくある。周りからは飼い主(陽菜)に懐く犬(高槻)だと言われるくらいだ。 「どんなに可愛くても、そろそろ仕事モードに切り替えろよ」  突然注意を促され、顔を上げると、立っていたのは凌駕だった。

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