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第15話 憂鬱な一日の始まり①

 一夜明け、早朝に目が覚めると凌駕の姿はなかった。陽菜を寝かしつけた後、帰ったようだ。  高槻と陽菜なら、このシングルサイズのベッドにも二人で押し合いしながら寝られるが、流石に凌駕とでは無理がある。一人で勝手に眠ってしまい、失礼なもてなしだったと反省した。  ふと気付けばパジャマに着替えさせてくれている。スーツは適当なハンガーに掛かっていた。お酒を飲んでもいないのに介抱されるなんて情けない。  ここまでしてもらって尚、起きた時に、隣に凌駕がいなくて寂しいと思ってしまうとは図々しいにも程がある。もう自分の役目は終わったというのに、何を期待しているんだと自分を諌める。  ふぅ、と溜息を零した。  起きたくない。シーツに深く身体が沈んでいく。怠い。仕事に行きたくない。腕で目を覆い、低く唸る。 「……失恋くらいで休むなんて。学生じゃないんだから」  自虐的に呟くと、のっそりと起き上がり、熱めのシャワーを浴びた。肌がじんわりと暖かくなっていくとともに、徐々に意識がハッキリとしてくる。  シャンプーとボディーソープで全身を洗い、凌駕の匂いを上書きする。少しずつ自分の中から凌駕が消えていくような感覚は名残惜しいものがあった。頸の噛み痕も、近日中に手術痕へと変わる。その手術痕が消えるまでは誰とも番にはなれない。 「番う相手なんて、いないじゃないか。問題ない」  そこまで考えて、再び自虐的な言葉を吐き捨てた。一生一人で生きていくために大手企業を目指したのだ。これで良かったに決まっている。でも……。  そっと手をやり、凌駕の歯の形を指先で捉えた。二週間も経っていないのに、ずっと昔の出来事のように感じる。激動の日々のように思えたが、この数日間がそれだけ濃厚な時間だったという証だ。  関わるはずのない二人の運命線は、凌駕からすれば「最悪」と言った方が正解なのだろう。当初の陽菜への評価も含め。  それでも打ち解けた後は誠実に対応してくれた。凌駕の力になりたくて傍にいると宣言したのに、結果的には陽菜が勝手に居座って、勝手に好きになっただけだっだ。    実に呆気ない終焉である。  シャワーは虚しさまでは流してくれない。  食欲は湧かないので温かいカフェオレを淹れ、ゆっくり飲み干した。  洗濯物を部屋干しし、アイロンのかかったシャツに腕を通す。  スーツは三着しか持っていないので、昨日のは急いでクリーニングに出さなければいけない。  次のボーナスではもう一着買い足そう。オシャレなのがいい。高槻がこの前着ていたシックなチェック柄のジャケットがカッコよかった。買い物に付き合ってと言えば、喜んで来てくれそうだ。  身長は高槻の方が高いが細身の体型がよく似ている。  楽しい時間が欲しい。  マグカップを洗いながらそんなことを考えた。  日常に戻っていく。平穏であればそれが一番なのだと言い聞かせながら、静かな朝を迎え入れた。    普段よりも早くに目が覚めると時間を弄び、一本早い電車に乗った。混み始めているものの、窓の外の景色に目をやるくらいの余裕は持てる。会社で凌駕と顔を合わせるのは気まずいが、昨夜のお礼は直接言いたい。ちゃんと話せるか不安になり、無意識に胃を押さえていた。  重い足取りで会社に向かうと、ビルの前まで来たところで「陽菜ちゃーーん」と大声で呼ばれた。この声は黒川だ。  顔を上げると、大きく手を振りながら颯爽と歩いてくる。モデルのようなスタイルな上、私服出勤の黒川は、まるでランウェイを歩いているようだ。すれ違う女性は皆、彼を見上げて息を呑んでいる。 「おはようございます。先日はご馳走様でした」  慌てて頭を下げる。  黒川は「謝罪も兼ねてるんだからお礼なんて言わないでよ。良心が痛む」と、たいして気にしていないように笑った。 「凌駕とは話せた?」  そうだったと思い出した。黒川のおかけで凌駕と話し合えたのだ。  あの後からずっと二人きりで過ごしていたため、凌駕からも連絡は届いていないようだ。  昨日の朝なら良い返事が返せただろうが、今日はなんと言って良いのか分からない。 「それは……望月先輩から聞いて頂いた方がいいと思います」 「なんでそんな他人行儀なの? え、まさか上手くいかなかった? 待って、陽菜ちゃん目が赤くない?」  黒川は陽菜の顔を覗き込む。  番解消の手術を受けることになりましたと、自分の口からは言いたくなかった。  泣いた原因がそれだとも、陽菜から黒川に伝えてしまうと、凌駕を悪く言ったように捉えられるかもしれない。 「いえ、僕は大丈夫です。語弊があるといけないので、望月先輩から直接聞いた方がいいと思っただけです」 「気に触る言い回しだな。金曜日以来、凌駕とは会ってないの? 連絡とかは?」 「昨日、食事に連れて行ってくれました。あ、勿論二人きりじゃないですよ。営業部の人も一緒に焼肉をご馳走になったんです。金曜日は黒川さんのお店で、支払いをどうしてもさせてもらえず、良いところを持っていかれたって残念だったみたいで」 「そんな楽しいそうな会、俺も誘って欲しかった。陽菜ちゃん、俺ともデートしてよ」 「デートじゃないですって。あ、そう言えば僕、新しいスーツが欲しくて。どこか良いお店をご存知ないですか? でも、黒川さんの行きつけは僕には敷居が高すぎますよね。やっぱり大丈夫です。忘れてください」 「スーツ!! うん、いいね。行こう行こう。ってか陽菜ちゃん、前もそのネクタイだったよね。バリエーション大事だよ〜。俺が全身プレゼントするから、サイズ測りに行こうか。いつが空いてる? 今日? 明日?」  こうなる展開は予測可能なのに、話を逸らせたくて早まってしまった。それに、当たり前にオーダーメイドなのも陽菜には無い発想だ。 「あ、いや……その……そんなつもりで言ったのではないので」  黒川に謙虚な態度は通用しない。『嫌よも駄目よも全てオッケー!』が黒川流だ。 「ついでに食事もしようか。今度は俺と二人きりね。ドライブもいいよねぇ。陽菜ちゃんは行きたい所とかない?」  ぐいぐい距離を縮めてくる黒川に、後退りをしてしまう。 「特に、ない、です」断るバリエーションは、これ以上持ち合わせていなかった。 「謙虚な陽菜ちゃん、本当に可愛い。とりあえず今日は俺とデートね。残業すんなよ」  終始テンションの高い黒川が、陽菜の肩に手を置く。  返事に困っていると「朝から何を騒いでいるんだ。会社の前で」黒川の背後から声がかかった。

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