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第19話 二人のサイン①

 会社で凌駕に会う機会はあまりない。フロアは同じだが凌駕が相手にするのは部長クラスの人ばかりで、陽菜のような新人は遠目に見たり業績を人伝に聞いたりはするものの、話す機会さえ稀である。なので、避けるのは案外容易だった。    外回りの仕事が多いのもこんな時は便利だ。いろんな人と話しているのも気が紛れる。陽菜が相手にしているのは主にエステや美容クリニック、美容室で、どこに行っても男性よりも女性が主導権を握っている印象がある。というよりも、女性の意見が重要視されているのだろう。それほど女性の着眼点は鋭いと言える。  陽菜や高槻のような、男らしさには欠けるが柔和で女性に溶け込みやすいタイプは、この手のクライアントにウケが良い。陽菜は自ら営業部を希望したわけではないが、配属された理由はなんとなく理解出来た。自分でも営業は向いていると感じる。  一つの店やクリニックに気に入ってもらえれば、知り合いの店舗を紹介してくれるのも都合が良かった。急に呼び出されるなんても珍しくなくあるが、それを熟せば成績は自ずとついてくる。  そうやって、この二年と少しの間に死に物狂いで営業成績を伸ばしてきたのだ。    昨日の黒川の励ましを思い出す。そうだ、誰も陽菜をオメガだと疑っている人はいない。仕事に打ち込んでいる間は、余計なことを考えないでいい。恋愛に振り回されて、やっと出来た基盤を自らの手で壊すわけにはいかない。    しかし悲しいかな、どんなに決意を固めようとも、凌駕の顔を見てしまえば脆く崩れ落ちてしまう。気にかけてもらえないかと期待してしまう。強引に拐ってくれないかなんて願望を抱いてしまう。  顔を合わせる稀なタイミングすら排除しなくてはならない。この噛み痕はいずれ消えるのだ。    凌駕が出社する時間は概ね決まっているので、それよりも早く会社に入る。  幸い仕事が立て込んでいて、凌駕を思い出すどころか、昼食を食べる時間も儘ならないほどだった。  終業時間を過ぎた頃、凌駕からの電話がかかってきたが嘘を吐かずに仕事を理由に断れた。 「そうか」と、一言だけ言うとすんなりと電話を切ってくれた。  自宅でできるPC作業だったのでマンションに持ち帰ることにした。会社で残業をしていると、凌駕が営業部まで会いに来そうな気がしたからだ。  会議室で高槻と資料をまとめた後、一緒に会社を出た。もしかして待ち伏せされているかも……なんて、どこかで期待していなかったわけではないが、凌駕とて暇な人ではない。陽菜が駄目なら誘う相手は他にも沢山いるはずだ。ビルの灯りも半分以上が消え閑散とした街は、陽菜の孤独を誇張しているようだった。  隣で高槻が大きく伸びをして「疲れたぁ」と呻る。 「しばらくは覚悟しとけよ、陽菜。倒れないようにな。全く、繁忙期でもないのに異例の忙しさだよな」 「でも僕、忙しいの好きですよ」 「忙しいにも限度がある。昼飯はなるべくゆっくり食べたい」 「確かに。高槻さん、来週、美味しいお店の新規開拓しませんか?」 「いいね、乗った!」  楽しい約束を増やしたい。頭の中の大半を占める凌駕への想いを少しでも小さくしたい。  マンションに帰ったタイミングで黒川からメッセージが届いていた。御影の連絡先を送ってくれたのだ。  コンビニで買ってきたご飯を食べながら、早速昨日のお礼を兼ねてメールを送った。 『東雲です。昨日はお世話になりました。スーツ楽しみにしています。黒川さんから御影さんも僕と同じオメガと聞き、勝手に親近感が湧いています。男のオメガ同士、仲良くなれるといいなと思ってます』  返事は三十分も経たないうちに返ってきた。 『こちらこそ、ありがとうございます。翔ちゃんから会社にオメガの男の人がいると教えてもらい、とても興味を持っていたので実際お会いできて嬉しかったです。仕事上だけではなく、友達として接してもらえると嬉しいです』  プライベートでも気が合いそうだと感じる。黒川には感謝しかない。  持ち帰った仕事を片付けながら、寝る直前まで御影とのメールのやり取りを楽しんだ。御影の年齢は今年二九歳で、陽菜の三つ上だった。小柄で童顔な彼はもっと若く見える。下手すれば陽菜よりも年下と言っても良いくらいに。それでも敬語はやめようという話になり、お互い下の名前で呼ぼうと話し合った。  新しい出会いに、寂しくなく夜を過ごせたのは僥倖と言えた。黒川との時間がなければ、きっと今頃は凌駕を想い、やるせない気持ちに押しつぶされそうになっていたに違いない。  その凌駕からはあれから一切連絡はなく、陽菜への未練はないのだと思い知らされた。誠とは過ごした時間が違いすぎる。陽菜は名残惜しいと思ってもらえるほど近くにいたわけでもない。    それを裏付けるように、翌日は連絡すら来なかった。見切りをつけたのだろう。  逃げているのは陽菜なのに、落胆してしまう。寂しさを誤魔化すためには仕事に没頭するしかなかった。    明日はいよいよ病院の日だ。夜は緊張で寝付けなかった。手術の日程が決まれば仕事の有休を取らなければならない。インフルエンザと偽ったばかりで次はどうしようかと、それも悩ましい。  高槻が過剰に心配しそうだ。もしも手術痕を見つけられたらどうしよう。まだ先の未来を想像し、胃がキリキリと痛む。  陽菜は寝るのを諦め、起き上がった。  タブレットを取り出し、適当な映画を流す。座っていると胃の痛みが増すので、横になったまま、ぼんやりと画面を眺めた。退屈な外国の恋愛映画はまるで内容が頭に入ってこなかったが、そのくらいで丁度良かった。どのくらい経ったか、いつの間にか眠っていた。    朝はアラームで目が覚めたものの、寝た気がしない。  起き抜けにスマホをチェックしても、やはり凌駕からの連絡はなかった。  ———今日、本当に来てくれるのかな。  若干の不安も過ぎる。  胃の痛みは治まらない。肌の調子も悪い。最悪な日の幕開けのように考えてしまい、さらに落ち込む。  重い足取りで職場へ向かうと、珍しく先に来ていた高槻が温かいココアを買ってくれた。 「疲れたよな。今日だけ頑張れば休めるから」 「はい」  言葉少なく返事をする。無性に高槻に自分はオメガだと打ち明けたくなった。今日、実は病院に行くのだと。番を解消するのだと。全部暴露して、慰めてほしい。それでどうなる問題でもない。凌駕との関係が良い方向に向かうわけでもなければ、吹っ切れるわけでもない。不安が解消されたりもしない。  それでも誰かに縋らなければ、自分が壊れてしまいそうになる。  実際には、簡単に言えるわけもなく、曖昧に気持ちを誤魔化して作り笑いを浮かべるのだった。

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