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第20話 二人のサイン②

 仕事はまだまだ多忙の中にあり、息つく暇もない。今週は見事に昼ごはんを食べ逃した。  新シリーズの基礎化粧品が予想以上に好調で、限定パケージを打ち出してはどうかという案が突如浮上したのだ。主にクリニックやエステがターゲットなので、成分を見直すことはあってもパッケージには予算が大幅に組まれたりしない。しかし女性は何かと限定が好きだ。中身は同じでも、パッケージの色が違うだけで、人気のキャラクターとコラボしただけで、ストックを抱えていても買う傾向にある。  そこで新シリーズは、定期的に限定パッケージを販売することでコレクションしてもらおうと話が進んだのだ。要するに、今後この忙しさは定期的にやってくる。  重なるデザイン課と企画課とのミーティングに加え、営業活動。週末は休めても、しばらく落ち着く見通しは立たない。やりがいは感じるが、ついて行くのだけで精一杯だ。先輩の説明を取りこぼさないよう必死にメモを取り、合間で見返す。仕事にはなれたつもりでも、こういう時に新人なのだと痛感させられる。先輩たちは何も言わないが、足を引っ張っていると思われている気がする。  遅れを取らないためにはプライベートの時間を削るしかない。気付けば時間は夜の八時。病院の予定時間を大幅に過ぎていた。 「大変、こんな時間になってる」焦った陽菜を見て、高槻が先に帰らせてくれた。    流石に今回は凌駕からの不在着信も残っている。急いで折り返すと、近くのコーヒーショップで時間を潰しているとのことだった。  凌駕の車で一緒に行こうとしてくれていたらしいが、それは避けたいと思い、もう駅に着いてしまったことにした。 「電車で向かうので、直接病院へ来てくれませんか?」  凌駕が電話の向こうでため息を吐いたのが聞こえた。それだけで胸が痛い。 「分かった」それだけ言うと、通話が切れた。  罪悪感が募る。この後は絶対に凌駕と顔を合わせなくてはならない。会いたいけど、会いたくない。顔を見ただけで泣いてしまいそうで平然を装える自信が持てない。  それでも逃げ出すわけにもいかず、待ち合わせの場所へと向かった。 「お疲れ様。だいぶ疲れているな」 「申し訳ありません。残業で……」  凌駕は陽菜を目の前にしても触れようともしてこない。  ———当たり前だ。こんなことで泣くな。  自分に言い聞かせ、隔離病棟へと案内する。オメガは二四時間対応してくれる。この病院を選んだ決め手の一つだ。  院内に入ると看護師が待っていてくれた。担当医の元へと誘導してくれる。 「咲坂先生、遅くなってすみません」 「丁度、当直でね。いつでも構わないよ。そちらがアルファの?」  咲坂が凌駕に視線を移す。 「望月と申します」  軽く頭を下げ、凌駕が自己紹介をした。 「私は陽菜くんの担当医の咲坂と言います。番の方ですね」 「はい」と返事をすると、椅子に座るよう促してくれた。  覚悟を決めた凌駕は吹っ切れたように、爽やかな印象すら与える。対する陽菜は、この世の終わりと言わんばかりに青ざめていた。  二人の様子を見比べるように咲坂が視線を往復させると、世間話もなく本題に入る。 「番解消の手術についての説明を陽菜くんにはしたのですが、望月さんにも聞いてもらいますね」  準備してあった資料を手渡す。しかし凌駕はそれを受け取らなかった。 「必要ありません。手術は受けません」  ハッキリと、面と向かって断言した。 「望月先輩?」  訳がわからなくて凌駕を見上げる。咲坂も目を丸くして「ほぅ」と零した。 「それは番でいるという意味でいいのかな?」 「はい、今日は番の証明書にサインをしに来ました」 「なるほど、そうでしたか。陽菜くん、早く言ってくれれば良かったのに。私にサプライズしようとしてた?」  咲坂は顔を綻ばせて看護婦に証明書を持ってくるよう頼んだ。 「いえ、実は東雲にも話していなかったんです。サプライズをされたのは彼の方で」 「だって、先輩。何も言わなかったじゃないですか」 「誠の私物を処分したと報告した時、突然泣き始めたから最初は訳が分からなかった。でももしかすると勘違いしているんじゃないかと思ってね。東雲が泣き止んでからちゃんと説明しようとしてたんだけど、眠ってしまったからタイミングを逃してた。それから避けられているのも明白だったし、これはもう、証明書にサインするしか信じてもらえないだろうと思って敢えて黙ってたんだ」  凌駕の言葉にまだ理解が追いつかない。  今日は手術の同意書にサインをして、番を解消して、赤の他人に戻るのではなかったのか。  困惑している陽菜に、咲坂から「おめでとう。陽菜くんにこんな素敵な番ができたなんて、私も嬉しいよ」と祝福の言葉をもらう。  凌駕は躊躇わずに番証明書にサインをした。それを陽菜に手渡す。 「東雲もサインして」 「え、でも……」 「俺が番では不満か?」 「そんなわけ……! 本当に、いいんですか? 僕なんかで」 「失意のどん底から救ってくれたのは東雲だった。君から『傍にいます』と宣言された日から、こうなる未来を望んでいた」  真っ直ぐに見詰める眼差しに、陽菜の方が逡巡してしまう。  凌駕の前でだけ素直になれない自分はちっとも可愛くない。勝手に番を解消すると決めつけ、凌駕を突き放そうとしたくらいだ。  なのに、凌駕はそんな陽菜も全て見越していたと言うのか。 「ほら、早く」  待ち侘びる凌駕に促され、ペンを取る。手が震えて最初の一画が書けない。そのうち、視界が滲んで記入欄もぼやけてきた。 「すみません。びっくりして」  ハンカチで何度も涙を拭いながら証明書と向き合う。ここに陽菜がサインをすれば、紛れもない番であると証明される。 「ゆっくりでいいよ」咲坂も微笑んでいる。大学生になるのをキッカケに世話になり始めてから、八年の付き合いになる。第二の父のような存在でもある担当医に見守られ、ついに陽菜はサインをした。 「おめでとう、陽菜くん」  破顔して笑う咲坂に、また涙が溢れてきた。  隣から凌駕に抱きしめられ、「ありがとう」と囁かれた。  病院を出ると、凌駕の車に乗り込む。まだ泣き止まない陽菜に、凌駕は口付けた。 「陽菜、好きだ」  初めて名前で呼ばれ、涙は一層溢れてしまう。 「僕も……」 「待て。その一言は帰ってから聞かせてくれ。ここで抱き潰してしまいそうだ。誰にも邪魔されずに、ちゃんと話し合いたい」  凌駕は車を出発させた。一週間ぶりの匂いに、心拍数は早まる一方だ。  さっき口付けられた唇の感触がまだ残っている。もっとキスしてほしい。凌駕の気持ちを聞かせてほしい。気持ちは逸るが、生憎、病院から凌駕のマンションは遠かった。  互いにそわそわと落ち着かないのを感じる。  ようやくマンションに到着すると、二人でエレベーターに飛び乗った。最上階に到着するのがもどかしくて落ち着かない。  カードキーを挿すのにも焦って手元が覚束無い。雪崩込むように玄関に入りドアを閉めた瞬間、激しく唇を求められた。

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