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第32話 隔離病棟①
「陽菜、良かった。目が覚めたんだな」
まだぼやけている視界でも、高槻が心配してくれていると伝わってくる。優しく、弱った声だった。
陽菜は白く大きな布に包まっていて、高槻の膝枕で眠っていたようだ。
高槻はずっと手を握っていてくれたらしく、その手は震えていた。
「ここは……」
「今、デザイン課の黒川課長の車で病院まで送ってくれてる」
運転をしている黒川に陽菜の意識が戻ったと伝え、黒川がバックミラー越しに陽菜を見た。
いつも明るい黒川が眉根を下げ、安堵のため息を吐く。凌駕と一緒に駆けつけてくれたのかと、申し訳なくも嬉しかった。
「僕のせいで……」謝ろうとすると、高槻が被せて話す。
「ん、今はまだ眠れそうなら眠った方がいい。オメガ用の抑制剤は誰も持ってなくて。ヒート、まだ完全に治ってないだろ」
「怒らないんですか」
「怒られるのは俺の方。陽菜を守るって約束したのに、全然ダメだった」
高槻はごめん、ごめん、と声を震わせ繰り返す。零れた涙が陽菜の頬で弾けた。
「でも高槻さんはアルファの社員にケガをさせられたのに、それでも立ち向かってくれたじゃないですか」
「なのに陽菜は襲われた。頸を噛まれなかったのは、望月先輩が来てくれたからだ」
高槻は、陽菜が襲われた時のことを静かに話し始めた。
陽菜を襲った社員は、陽菜を見るなり高槻を突き飛ばした。高槻さえ一瞬何が起きたのか分からず、体を強打したことで自分が吹き飛ばされたのだと理解したと言う。
「目の前で男が陽菜にキスをしてて、最初は何かの嫌がらせかと思ったんだ。陽菜は営業成績が良いから、陰で妬んでる奴がいるのも知ってた。でもそれにしても様子がおかしい。俺はオメガのヒートを見たことがなかったし、陽菜はベータと思い込んでたから、ヒートだという考えに至るまでに時間がかかった。それでも大人のくせに我を忘れて陽菜に酷いことをするそいつが許せなかった。怒りが沸騰して、それからは無我夢中だった。でも何度引き剥がそうとしても、俺が体当たりで挑んでも、ラット状態のアルファからは腕だけで吹き飛ばされた」
自分の無力さに愕然としたと肩を落とす。
高槻は続ける。
「長谷川が騒ぎを聞きつけて走ってきて、驚きながらも冷静な判断と行動を取ってくれた。俺だけなら、何もできなかった。望月先輩の顔すら思い浮かばなかった。長谷川に叱咤され、どうにか気力は保てたけど、体力の限界が先にきてしまった。望月先輩が来てくれなければ、俺もあのまま意識を失ってたと思う。怖いな、ヒートって。陽菜はそんな危険と隣り合わせで、仕事をしてたんだな」
陽菜がオメガだと知った高槻は、落胆するどころか尊敬の念を唱えた。オメガのヒートもアルファのラット状態も、人生で目の当たりにするとは思いもよらなかったのだと言う。ベータの自分には関係のない世界だと関心すら持たなかったと。
「俺の傷なんて、大したことない」かぶりを振りながら、また一筋涙が頬を滑る。
そこからは黒川が変わって説明を続ける。
走り去った長谷川は四階まで急いだが、会議が遅れていた凌駕とは数分会えなかったそうだ。会議室のドアが開いた瞬間、長谷川が乗り込み凌駕に助けを求めた。
「東雲がヒートを起こして襲われています。助けてください」
長谷川もエスカレーターを駆け上り、息切れしてそれだけしか話せなかったが、凌駕が状況を理解するには充分だった。偶然、同じ会議に出席していた黒川に目配せをして共に走り出す。長谷川は咄嗟にテーブルクロスを引っ張り凌駕に手渡した。
「陽菜ちゃんの体を包み込めるものを、長谷川さんは目に入ったテーブルクロスを見て勝手に体が動いたみたいだった。流石は女性だね。焦っていても、陽菜ちゃんを移動させるには肌を隠さないといけないって、気遣ったんだ。あとは俺たちに任せろって言ったけど彼女も一緒に走った。東雲は大切な後輩だから、些細なことでも手伝わせてくださいって」
「俺がもう力尽きてたから、黒川先輩の車まで、殆ど長谷川が陽菜を運んでくれたようなもんだ」
みんなの優しさが辛かった。自分一人のために、それだけの人の力を借りてしまったのだと、後悔しても反省しても、起こしてしまった事件を無かったことにはできない。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「陽菜ちゃんは悪くないから、謝らないで。なんで番がいるのに他のアルファにフェロモンが届いたのかは想像がつかない。それは病院で診てもらうしかない。陽菜ちゃんが眠ってる間に高槻くんが病院に電話してくれてるから。咲坂先生だよね」
「はい」
黒川の言葉に今度は高槻は驚嘆した。
「待ってください。番って、陽菜は既に番がいるんですか?」
「凌駕だよ。望月凌駕」
「望月先輩が……!?」
その名前を聞いて、さらに瞠目する。
「長谷川はそれを知ってて、望月先輩を呼びに行ったってことですか?」
「それは違います」陽菜が答える。黒川も陽菜に続いて頷いた。
「彼女も陽菜ちゃんがオメガだってことも知らないよ。知ってたのは俺と凌駕だけ。一緒に食事に行ったって聞いたけど、多分その時に、勘の良い彼女はなんかしら察したんじゃない? だって、凌駕と陽菜ちゃんが食事するなんて立場上あり得ないでしょ?」
「確かに……俺、あの時テンション上がりすぎてハシャいで飲み潰れたから。長谷川はそんなことまで読み取ってたのか」
「高槻くんが鈍感なんじゃなくて、長谷川さんが鋭いんだと思うよ。俺だって、つい先日だよ。二人が正式に番になったって聞いたの。凌駕は誰に対しても、解決してからじゃないと口を割らないからね」
黒川は慰めるように言ったが、高槻は不甲斐ない自分に失望している様子だった。
「君は本当に良い先輩だね。誰よりも陽菜ちゃんの力になりたいって気持ちが伝わってくるよ」
「そりゃそうです。陽菜は俺の初めての後輩ですし、配属された時に俺が守ってやるって宣言したんです」
高槻の手に力が籠った。陽菜はその手を握り返す。
「高槻さんがいてくれないと、僕は頸を噛まれていました」
「陽菜……」
本心だ。高槻がいなければ、もっと多くのアルファから襲われていたかもしれない。この事件はこれで最小限の事態で済んだと感じる。
「みんな、みんな、ありがとうございます」
そこまで話した時、黒川の車が病院へと入っていった。
高槻は腕で涙を拭い、咲坂に電話をかけた。
「先ほど電話した高槻です。今、病院へつきました。どこへ行けば……。はい、付き添いはベータしかおりません。……東雲は意識を取り戻しました。喋れています。はい、はい……隔離病棟ですね。そちらに向かいます」
高槻と咲坂の会話を聞きながら、黒川は車を隔離病棟の方へ移動させる。
「向こう側に救急の入口があるそうです。ナースが待機してくれています」
「了解」
言われた通りに進むと、数人のナースがストレッチャーと共に立っている。
ヒートはすっかり治っていた。
車のドアを開ける時には咲坂も出てきていた。
「陽菜くん、怖かったね。直ぐに中へ行こう」
咲坂の顔を見て、陽菜は緊張の糸が切れた。
「先生……」大粒の涙が溢れる。咲坂はナースに陽菜を移動させるよう指示を出し、ストレッチャーに寝かせた。
「こちらへどうぞ」黒川と高槻も中へ誘導される。
準備してくれていた個室へと移動し、高槻が電話で伝えたらしい内容を確認し始めた。
最初からずっと現場にいた高槻が、主に咲坂の質問に答える。
真剣に先生と対峙する高槻は、しっかりしろと自分に言い聞かせているように見えた。
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