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第38話 心地いい声と匂い①
安心する香りが体内に染み渡ると、自分でも驚くほどメンタルが落ち着いていく。いつの間にか凌駕なしには生きられない体になっていた。最初の頃のみたいに『期間限定でもいい』なんて、とてもじゃないが思えない。匂いを嗅ぎながら、凌駕に会いたくてたまらなくなる。
今はどんな仕事をしているのだろうか、時には陽菜を思い出してくれているだろうか。
一人になってからはその事ばかり考えてしまう。
既に遠い所まで引っ越してしまった。簡単には会えない物理的な距離は、二人を引き離そうとしているようで心苦しい。
白瀬を落ち着かせる為もあると黒川は言ったが、きっと彼が会社から追い出されることはない。
もしも陽菜が復帰すれば何かコンタクトをとってくるのではないか、不安が過ぎる。
「僕は、凌駕さんしか求めないし信じない」
負けない。負けたくない。
パジャマを抱きしめ、凌駕の匂いを思い切り吸い込む。
自分のために白瀬に屈してくれた凌駕に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せめて顔を見て謝りたい。
咲坂は夕食の後に部屋を訪ねてくれた。
黒川と高槻から教えてもらった内容を聞いてもらった。
咲坂は凌駕が九州まで引っ越した事実を知らなかったようで目を瞠って絶句した。
診断結果を伝えているはずだが、会社での話し合いよりも咲坂からの連絡が早かったのかもしれないと思った。
「あの、先生。充電器を持っていませんか? スマホの充電が切れてしまって、誰とも連絡が取れなくて」
「あぁ、待ってて。直ぐに持ってきてあげる。やっぱり黒川さんや高槻さんが来てくれて良かったね。誰とも喋りたくないって塞ぎ込んでいたのに、もう表情が違う。きっと、望月さんも早く陽菜くんの声が聞きたいと思っているんじゃないかな」
「……はい。そうだと良いですけど」
咲坂は病院に常備している充電器を走って取りに行ってくれた。
陽菜は早速電源を入れ、通知を確認する。
入院してすぐに凌駕からのメッセージが入っている。通常、発情期の治る五日目くらいからは高槻に長谷川からも届き始めていた。その中に啓介からもメッセージが一件入っている。
凌駕からは、今日黒川から聞いたおおよその内容と同じ説明が長文で送られていた。ただ、陽菜が不安になる部分を避けている。彼らしい優しさに、胸が締め付けられる。
高槻や長谷川、黒川も励ましや体調を心配する文面が並んでいる。
黒川は啓介には今回の事件を秘密にしてくれているようで、啓介からのメッセージはスーツの試着に来て欲しいと綴られていた。
発情期中は独りぼっちで寂しかった。いつだって発情期はそうなのに、今回は特に寂しさが募っていた。けれど、そうじゃなかった。自分には沢山の人が寄り添ってくれていると実感できた。
恩返しは元気な姿を見せることしかないのだろう。
「リハビリ頑張って、早く退院しないと」
決意を新たにする。
咲坂が帰った後、履歴から凌駕の名前をタップする。
まだ時間は夜の八時過ぎ。仕事をしているかもしれないが、電話をせずにはいられない。
コールは一回目が鳴り終わるまでに途切れた。同時に『陽菜!!』焦った声が耳に飛び込んでくる。
「凌駕さん……」
『あぁ、本物の陽菜だ。声が聞きたかった。ありがとう、電話をかけてくれて』
「僕も凌駕さんの声が聞きたかったです。仕事じゃなかったですか?」
『仕事は終わっていたけれど、陽菜より優先順位の高い用事なんてない。例え会議中だったしても必ず電話に出る』
それは駄目ですとくすりと笑う。
陽菜が落ち着いていると伝わったのか、凌駕も声のトーンをいつも通りに落ち着かせた。
『陽菜、体調は回復したか?』
「なんとか。でも退院までにはまだかかりそうです」
発情期が長引いたこと、診断結果を聞いて精神的ダメージが大きく、しばらく立ち直れなかったこと、寝込んでいる期間が長く、リハビリをしないといけないこと。順を追って説明する。
凌駕は頷きながら、真剣に陽菜の言葉に耳を傾けてくれた。
いつもなら凌駕の方が良く喋るが、今日は陽菜が沢山喋る。
自分でも驚くほど気分が高揚しているのが分かる。子供が母親に一生懸命話しかけて気を引いているみたいだ。まだ食欲が戻らない陽菜は、長時間喋る体力はない。けれど息切れをしながら、時折咽せながらも、凌駕の気を引こうと必死だった。
凌駕は遠慮がちな陽菜が積極的に喋ってくれるのが嬉しいと言った。
『診断結果は咲坂先生が俺にも連絡をくれたよ。まさか、無効化されるなんて珍しい症状が現れるとは想像もしてなかった。油断していたよ。もっと慎重になるべきだった』
浮かれていたと、凌駕は言う。
「僕だって浮かれていました。凌駕さんのような人と番になれて、驕っていました。」
電話の向こうで『そんなわけない』と柔らかく否定した。耳がくすぐったい。
こんな事態を迎えてしまい、謝りたくて電話をかけたのに、いざ声を聞くと暗い空気にしたくないと思ってしまう。
凌駕も同じ気持ちでいてくれているのか、決して謝罪の言葉を述べたりしない。
ただ以前と同じように穏やかで、繋がっている時間を大切にしたい。現状を嘆くより、久しぶりに声が聞けた喜びに浸っていたい。
電話は深夜日付が変わっても続いていた。
陽菜はベッドに横たわったが興奮で寝られそうにない。こうして話していると、遠く離れているのが信じられないほど近くに感じる。本当は凌駕のマンションにいるのではないかと思ってしまうほどに。
勘違いと分かっていても、今はそれで良かった。
心地よいリズムで、少し低い声が陽菜を癒してくれる。
凌駕は、陽菜が寝落ちするまで電話を切らずにいてくれた。
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