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第39話 心地いい声と匂い②
その日を皮切りに毎晩凌駕の仕事が終わった後、電話で話をするのが日課となった。
話題はその日の陽菜のリハビリの進行具合だったり、黒川や高槻が面会に来てくれた報告。凌駕は仕事の話だったり、ご当地飯についてだったりする。他愛ない話題は尽きない。いつか陽菜にも見せたい景色が沢山あると凌駕は言う。そのために、しっかり体力を戻すように言われると、陽菜も素直に頑張ろうと思うのだった。
ある日、顔を見て話がしたいからビデオ通話にしようと言われたが断った。入院中の陽菜は、とても凌駕に見せられるような状態ではない。髪はボサボサで頬は痩けている。最近ようやく最低限のスキンケアをするようになったが、画面を通しても乾燥で肌が荒れているのはバレてしまうだろう。仮にも美容を謳って仕事をしているのに、今の陽菜には説得力の欠片もない。
凌駕はそれを咎めたりしないが、陽菜は甘えすぎてはいけないと自分を戒める。
ここは個室とはいえ誰がどのタイミングで入室するか分からない。退院してマンションに帰ってからゆっくり話したいと言い訳をしたところ、それ以上は無理強いをしなかった。
陽菜も凌駕の顔を見たい気持ちは強くある。けれど、いつでも完璧な凌駕にこれまでにない酷い状態を見られたくない。黒川や高槻になら平気であっても凌駕の前では少しでも釣り合う人でいたいのだ。
(早く退院して凌駕さんに姿を見せられる状態に戻さないと)
その日の電話を切った後、陽菜は固く誓う。一日でも入院期間を縮めたい。
気持ちの表れか、陽菜は咲坂が驚くほどの回復を見せた。
「このままだと、予定より早く退院できそうだね。退院後は以前と同じ強い抑制剤を飲まないといけないから、それだけ気をつけてね。しばらくは通院も頻繁にしてもらうけど、日常生活は特に心配ないかな」
「本当ですか!? ありがとうございます」
予定より早いとはいえ、入院生活は一ヶ月に及んだ。
丁度その日に黒川がお見舞いに来てくれたので、退院日が決まった旨を伝えた。
「そっか。良かったね。やっぱ愛の力は偉大だ!」
「やめてください。でも……ありがとうございます。みんなに助けられて、僕は幸せ者です」
「なになに、こっちこそやめてよ!! 俺がそんなキャラじゃないって知ってるでしょ」
途端に照れる黒川は褒められるのが苦手のようだ。
退院日は車で迎えにくると言った後、さりげなく話題を変えた。
高槻は今日は来られないとのことだったので、メッセージを入れておく。
数時間後、連続して喜びのスタンプが送られてきた後「おめでとう!! 待ってるぞ」と短くメッセージが届いた。スマホが使えるようになると、高槻は頼んでもいないのに自撮りやランチの写真を度々送ってくる。その度に陽菜は笑ってしまうのだが、励まされているのは確かだった。
まだ仕事中の凌駕にももうすぐ退院できるとメッセージを送っておいた。
夜、凌駕は電話で安堵の言葉を溢した。
「俺のマンションで過ごして欲しいと翔に伝言を頼んでおいたが、伝わっているか?」
「はい、聞いてます」
「陽菜のものは買い揃えてあるから好きに使ってくれ。食事は翔のお兄さんに頼んである。最初に行った居酒屋の経営者だが、デリバリーもやってるんだ。バランスの取れた食事は大切だからな」
「食事の手配まで取り付けてくれているんですか?」
「当たり前だ。陽菜は一人だと平気でコンビニ弁当やインスタントで済ませようとするだろう? それでは体調を崩しやすくなってしまう。翔のお兄さんに任せておけば一番安心できる」
当然の如く、凌駕が言う。
陽菜としても凌駕の手料理を食べ始めてからは、ジャンクフードを食べたいと思わなくなっていた。
退院後は自炊をしようと思っていたが、凌駕の言う通り、忙しくなればインスタントに頼ってしまうのは想像がつく。翔のお兄さんが経営してる居酒屋の味は緊張で程んど記憶にない。それでも栄養バランスを考えて作ってくれ、凌駕が頼むくらいだから味も保証されている。
体調が回復して退院するとはいえ、考えてみればいきなり全て自炊も面倒くさい。
細やかな気配りには常々感嘆してしまう。
素直にお礼を言い、デリバリーを頼むことにした。
退院当日はわざわざ黒川が有休を使って迎えに来てくれた。
「片付けて夜はゆっくりしたいでしょ」両手に陽菜の荷物を軽々と持つと車に運ぶ。
咲坂と挨拶を交わすと凌駕のマンションへと向かった。
一ヶ月ぶりの部屋。
玄関ドアを開けると凌駕の匂いがふわりと陽菜を包み込む。
黒川はお構いになしに荷物をリビングまで運び、空調を整え、今日の晩御飯と明日の朝ごはんを冷蔵庫に入れていく。
「陽菜ちゃんは座ってなよ。移動だけでも疲れるでしょ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「気にしないで。陽菜ちゃんに無理させたら俺が凌駕に怒られる」
丁重に扱えと口煩く言われているのだと笑う。
それは大袈裟なのだろうが、黒川も凌駕に負けず劣らず気遣い上手だった。
思い返してみれば黒川があの日、居酒屋に凌駕を呼び出してくれていなければ、今も和解できてなかったかもしれないのだ。テキパキと動く黒川を眺めながら、出会った頃を思い出していた。今ではすっかり気の置ける、頼れる先輩だ。
一通り片付けが終わると、黒川は自分の荷物をまとめて立ち上がる。
「仕事の復帰は明後日からだよね? 迎えに来ようか?」
「いえ、ここからなら電車を使っても一駅ですし。早めに行って営業部のデスクを片付けないといけないので」
「そっか。じゃあ、デザイン課で待ってるからね」
黒川を見送り一人になると、一気に肩の力が抜ける。
ソファーにどっさりと身を沈め、天井を仰ぎ見た。
今にもドアが開いて凌駕が帰ってきそうなのに、明日になっても明後日になっても、彼が帰ってくることはない。
「……会いたいな」
溢れた言葉は宙で解けて空気と同化する。
クッションを抱きしめ横たわると、ただこの空間に残されている凌駕の痕跡を感じることに専念した。
夜が待ち遠しい。
毎日電話で話しているのに、ここに帰ってくると安心するどころか、凌駕への恋慕は膨れ上がる一方だった。
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