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第42話 社会復帰①

 久しぶりの出勤は緊張した。スーツのポケットに凌駕のハンカチを忍ばせてマンションを出る。  まだ人も疎らで肌寒い。頬を撫でるひんやりした風が、今は気持ち良かった。  以前から営業部の中でも一番乗りで出勤することが多かったため、概ね他の社員が出社してくる時間は把握している。それまでにデスクの荷物を片付けてデザイン課に移りたかった。  しかし予想よりも随分早くドアが開く。 「やっぱり、陽菜は早く来ると思ったんだ」 「高槻さん。おはようございます。入院中は色々とありがとうございました」 「本当に律儀な奴だな。俺が会いたかっただけ。退院の日は手伝いに行けなくて悪かったな」 「全然。そんなに荷物も多くなかったですし」  以前と変わらず接しられると思ったが、ここで会話は途切れてしまった。  陽菜は自然と窓の外に目をやる。今日もいい天気になりそうだと思った。 「そうだ。高槻さん、ココア奢ってください」 「あ、あぁ。勿論だ」  休憩スペースに移動する。  並んでソファーに座り、ココアとコーヒーで退院祝いの乾杯をした後、高槻は静かに話し始めた。 「……営業部に残して欲しいって頼もうと思ってだんだ。でも、やめた方がいいって長谷川に止められた。陽菜が騒動を起こしたのを良くないと感じている社員が少なからずいて、日頃の成績の嫉妬も含めて東雲がどんな目に遭うかは測れないって。それよりも黒川課長の許でいる方が余程安心だって。そりゃ、分かってる。頭では分かってるんだ。でもさ、俺から巣立って欲しくないって言ってたのは本音だから。ちょっと抗いたくなるじゃん」  高槻はコーヒーを見詰めたまま話した。  陽菜の知らないところで高槻が葛藤してくれていたと知り、心の底から嬉しかった。初めての上司が高槻で本当に良かったと伝え、「もっと一緒に仕事がしたかったですけど、これからも高槻さんが僕の中で一番の頼れる上司なのは変わりません」陽菜はしっかりと高槻の方を向いて言った。  高槻は最後まで力不足だった自分を悔いていたが、陽菜はその気持ちだけで充分な愛情を受け取ったと感じている。  二人がココアとコーヒーを飲み終わったタイミングで、長谷川が出社してきた。陽菜の姿を見るなり小走りで駆け寄る。 「東雲!! 体調はどう?」 「長谷川先輩、その節はありがとうございました。もう、すっかり良くなりました。短い間でしたけど、お世話になりました」上体を直角に曲げ、お礼を言うと、長谷川は慌てて「顔を上げて」と言う。 「湿っぽいのは得意じゃないわ。それに、会えなくなるわけじゃないでしょ。案外、しょっちゅう食堂で会うかもしれないしね。東雲が可愛い後輩なのは、これからも同じよ」  いつでも協力すると長谷川から激励をもらう。 「あ、長谷川ったら、陽菜と同じようなこと言うんだな。なんか俺が一番幼稚な気がして辛い」 「なら、しっかりしなさい。まだ時間あるんだから、荷物くらい運んであげるとかね」  なんでもズバズバと話す長谷川は肘で高槻を|突《つつ》く。 「今からやろうと思ってたんだよ。行こう、陽菜」  大股で営業部へと移動する高槻を見ながら、長谷川と二人で笑った。    高槻の後を追いかけようとしたところ、長谷川から袖を掴まれ止められた。今度は声を落として話し出す。 「東雲、白瀬さんの話は聞いてると思うけど、今後も警戒するに越したことはないからね。望月先輩が長期出張を引き受けたことで白瀬さんの怒りは一応静まったけど、今回ばかりは専務からお咎めを喰らったらしいの。今は役職も取り消されて、総務も追い出されて、ほとんど雑用も頼まれない、幽霊みたいな課に飛ばされたって」ビルの地下にひっそりとその課は存在していると続けた。 「そうなんですね。了解しました、気をつけます」 「じゃあ、また飲みにでも行きましょう」  長谷川と一緒に高槻の待つ営業部の入り口まで移動した。再度お礼を伝えてから、エレベーターに乗り込む。    デザイン課は営業部のある四階からずっと上階の十一階にある。陽菜は常日頃からデスク周りの片付けをマメにしていたので荷物は段ボール一箱しかなく、高槻が運んでくれた。  黒川率いるデザイン部は服装も自由で、その上、週の二〜三日は在宅勤務。社員は全員ベータではあるが、それにしても一日に顔を合わす人はそれほど多くないのだと黒川から聞いていた。  確かに、営業部でいるよりも格段に安心できる気がする。  エレベーターを降りたところで黒川が待っていてくれた。 「陽菜ちゃん、おっはよ。そろそろ来ると思ってたよ。退院してからは眠れてる?」 「はい、やはり自宅が一番ですね」 「すっかり落ち着いたみたいで良かった。じゃあ、ここからは俺が荷物を運ぶよ」  黒川は高槻から段ボールを受け取る。  デザイン課は日頃から接する機会の多い部署だったが、こうして赴くのは初めてだった。  いかにも会社という雰囲気ではなく、部屋全体がスタイリッシュにコーディネートされている。  デザインマンションの内装のようで、まるで会社に来た気がしない。 「リラックスできるでしょ。環境いいよ。俺がトップにいるからね」  特げに黒川が言う。  その後、数人の社員が出社し、黒川から紹介してくれた。  事件のことは噂で知ってるだろうが、どの人も白い目で陽菜を見なかった。内心ホッとしていると、中に案内される。 「仕事内容は何となく想像つくだろうけど、主には俺の補佐として働いてもらうね。最初は雑用係みたいになっちゃうけど」 「大丈夫です。デザインしろなんて突然言われるより余程」 「いずれは関わってもらうけど。まだ病み上がりだし、無理のない程度に始めよう」  雑用とは言っても暇なわけではなく、一日があっという間に終わってしまった。  黒川は疲れてるだろうからと、マンションまで送り届けてくれた。  そういえば啓介から試着に来て欲しいと連絡があったのを思い出し、黒川に言うと、明日にでも連れて行ってあげると言いながら、もう啓介にメッセージを送っている。 「じゃあ、明日もよろしくね」  黒川を見送ると、部屋へと急いだ。

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