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第44話 元恋人の存在①
直ぐにでも凌駕に報告したかったが、マンションに帰って気持ちを落ち着かせてからにしようと思い直し、電車に乗った。
車内の人は疎らで、ゆったりと座ることができた。
自然とお腹に手を当ててしまう。妊娠したと伝えたら凌駕は喜んでくれるだろうかと考える。
意外と感情を隠したりしない性格だ。電話の向こうでガッツポーズを見せてくれるかもしれない。
(報告はビデオ通話かリモート食事会の時にしようかな)なんて思いを巡らせる。
しかしタイミング悪く凌駕から『今日は電話ができそうにない』とのメッセージが届いた。挨拶もなく端的な文面から、会社でのトラブルが予測された。
陽菜の今の興奮のまま報告をしたかっただけに肩を落としたが、仕事が大変だと分かっていながら不貞腐れるのは良くない。
労いの言葉と共に『次に電話した時に伝えたいことがあります』との旨を添えて返信する。
本当に大変なのか既読は付かなかった。
朝、起きてスマホを見ると深夜二時頃メッセージが届いていた。やはり大きなトラブルがあったようだ。
『早くても一ヶ月くらいはまともに連絡取れそうにない。陽菜と話せないのは気が滅入るが体調には充分気をつけて』
一文字一文字、丁寧に目で追っていく。
忙しいのは凌駕なのに、こんな時でも陽菜の体調を気遣ってくれる優しい人。
『僕も凌駕さんの声が聞けないのは寂しいですが、次に電話ができる日を楽しみに頑張ります。凌駕さんこそ、倒れないように合間で休んでくださいね』
いっそ妊娠したと記そうかとも考えたが、慌ただしい時に不謹慎な気がしてやめておいた。陽菜の入院中も一ヶ月間完全に離れていた。今は電話はできずともメッセージくらいは送れる。返事は不要ですと言って迷惑にならない程度に応援の言葉を送ろうと思った。
次に連絡が取れるようになる頃には、陽菜も安定期に入っているだろう。報告するにはその方がいい気もした。
とにかく邪魔になりたくなければ、凌駕が落ちつくまでは待つべきだと判断した。
翌日、黒川への報告も妊娠の事実は隠した。一番に伝えるのは凌駕がいい。
「風邪気味だって言われました」
「今日くらい休めばよかったのに! 我慢せずにちゃんと言ってよね」
「ありがとうございます。また直ぐに受診するよう咲坂先生に言われたので、その日は早退させてください」
「リモートでもいいのに」
「早くデザイン課になれたいですし、こっちでいる方が気が引き締まるので」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど」
黒川は得意気に満面の笑みを見せた。
そして後日オメガ専用の産科を受診し、もうあと半月もすれば安定期に入ると診断された。
逆算すると、咲坂の見立て通り凌駕と出会った頃だ。黒川は陽菜の中には射精しなかったし、元よりベータとオメガでは妊娠自体が難しい。どう考えても相手は凌駕しかいない。
嬉しさが込み上げる。本当に、凌駕との子を宿したのだ。自分の下腹部をそっと押さえ、堪えきれず涙が溢れた。なんとしてでもこの子を守りたい。一刻も早く凌駕にも伝えたい。
(凌駕さんの仕事が早く落ち着きますように)
心の中で願う。
幸い悪阻らしい悪阻はなく、他の人には隠して仕事を続けられそうだ。しかし妊娠しても発情期があったということは、気を抜いてはいけないということだ。
これまで服用していた抑制剤は変えたほうがいいと言われたので、少し軽いものを処方してもらう。
番がいなくなってしまい、凌駕も近くにいない。今まで以上に気をつけなければならないと自分に言い聞かせた。
夜になって黒川から電話がかかってきて、今週は在宅で良いと電話をくれた。
正直、顔を合わせると妊娠の事実を話したくなるので助かった。
一人になるとずっとお腹の赤ちゃんのことばかりを考えてしまう。性別はどっちだろうか、自分の遺伝でオメガにはなって欲しくない。だからと言って、黒川を通じてベータの辛さも知ってるがゆえ、迂闊にベータなら平凡に暮らせそうとも言えない。
「元気に生まれてくれれば一番だよね」
お腹を撫でながら話しかける。自分が親になれる日が来るとは、人生何が起こるか分からない。
つい半年前までは一人で生きていくと決意していたのに、転機は陽菜の意思などお構いなしに訪れ、怒涛の波乱に巻き込ませる。凌駕と衝撃の出会いを果たしてからの日々は、とても五ヶ月弱とは思えないほど濃厚で、あっという間だった。
帰ってきた時には、これまでの日々を語り合うのも良いかもしれない。
凌駕に思いを馳せた。
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