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第48話 噛み痕が消えるまで①

 昼前になり、黒川は陽菜をマンションまで送ってくれた。早めの昼食に誘われたが食欲がないと言って断った。 「少しくらいは食べないとダメだよ」  黒川は帰る途中のパン屋さんでサンドウィッチと野菜ジュースを買って持たせてくれた。 「晩御飯は陽菜ちゃんのマンションに届けるよう手配しておくから、残さず食べて体力をつけること」  人差し指を立てて釘を刺される。  黒川が返事をせず落ち込む陽菜の顔を覗き込む。 「陽菜ちゃんは悪くない。白瀬の脅しなんか間に受けちゃダメだ。俺から凌駕に連絡してもいいけど?」 「それはやめて下さい。トラブル対応で一ヶ月くらいは連絡も取れないって言ってたんです。メッセージも既読にならない日もあるくらいですし。疲れているはずなので、僕のことで迷惑はかけられません」 「でも、凌駕は後から知らなかったって方が嫌がるタイプだけど。忙しくてもなんでも頼って欲しいと思うのは、恋人なら当然なんじゃないかな」 「そう……ですけど」 「俺から連絡されるのが嫌なら、陽菜ちゃんからメッセージだけでも入れると約束して」 「……分かりました」  俯く陽菜の頭を撫で、黒川は困った顔で息を吐く。駄々をこねる子供をあやすお兄ちゃんといった感じだ。黒川は会社に戻った後、専務に話を通しておくと言った。  まさかこんなにも早くに白瀬が問題を起こすとは考えていなかったようで、そっちの方に気が滅入っている様子でもあった。  手首には、白瀬に掴まれた痕がくっきりと残っている。  黒川には誠が会いに来た話はしなかった。それを知ると否応なしに凌駕に連絡をするだろうと思ったからだ。誠と白瀬が繋がっていたとは、黒川も凌駕も知らない気がした。当時は誠も白瀬を相手にしていなかったのではないか。凌駕が恋人になれば、わざわざ白瀬に媚を売る必要はない。それでも連絡先の交換をしていたのは、やはり専務の甥というところに食い付いたのだろう。  初めて誠に会って、彼のあざとさは驚嘆に値するほどだと実感した。    陽菜は誠が入社した後を想像してゾッとした。もしも白瀬と誠が手を組めば、次はどんな目に遭わされるだろうか。凌駕は三年後まで帰って来られない。きっと誠は白瀬に連絡を取ったことで現状をある程度把握したはずだ。誠ほど、あざとい性格であれば、白瀬を掌で転がすのは造作もないことだろう。  昨日の今日で白瀬が動いたのがその証拠だ。  無意識にお腹に手を添える。  まだ誰にも話していない妊娠。しかしあと数ヶ月もすれば隠しきれなくなる。  凌駕の子供を孕んでいると知られれば、白瀬が大人しくしているとは思えない。直ぐ誠に連絡されるのも目に見えている。  誠の最終的な狙いは凌駕との復縁だ。陽菜の妊娠を良く思うハズもない。  もしも、この子に何か起きてしまえば……。 「……そんなの、絶対に嫌だ」  自分のお腹を抱きしめるように蹲る。 「この子だけは、この子だけは誰にも、何もさせない」  今、凌駕と陽菜を繋ぐ唯一の存在。  白瀬と誠を思い出すと、どうしても嫌な方向に考えてしまう。  平気で発情したオメガを襲うような人だ。きっと被害に遭ったオメガは陽菜だけではない。  その上、今は凌駕への復讐心も強く持っている。階段から突き落とすくらい厭わないだろう。  誠にしても、自分の手は汚さずとも、白瀬に頼めばいいなんて発想になってもおかしくない。   「僕がこの子を守ってあげないと。凌駕さんが、僕にそうしてくれたように」  自分の立場を捨てでも、陽菜を守って一人で全てを背負ってくれた凌駕。  次は自分がそうする番だ。  陽菜は一つの決意を固めた。  スマホを取り出すと、電話をかける。 『もしもし? 陽菜から電話なんて珍しいわね』 「お母さん、あのさ、実は話したいことがあって……」  今、手放しに頼れる人は母親しか思い浮かばなかった。  会社の人には言えないし、啓介にも言えない。でも一人では何もできないことくらいは知っている。  母親なら、出産も経験しているし、流石に子供を産むのを親に無断ではできないと思った。  陽菜は凌駕ではなく母に電話をかけ、これまでの経緯を洗いざらい話した。  その上で、子供を産んで一人で育てたいと。 『その凌駕さんって人には頼れないの?』母は言う。 「今はまだ。三年は帰って来れないし、情報がどこから漏れるか分からないから、誰にも妊娠を知られていないうちに会社は辞める。凌駕さんにはこれまでに迷惑をかけ過ぎたんだ。これ以上、僕のことで振り回しちゃいけない。彼の足を引っ張るようじゃ、恋人とは言えないよ」  母は返事に困っている様子であったが、ちゃんと話し合ったほうがいいと言って、それ以上は陽菜が決めなさいと釘を刺した。  なんでも話せれば、どんなにいいかと考える。  会社でヒートを起こしてから、沢山の人を困惑させ、不要な仕事を増やし、迷惑しかかけない陽菜のことを守ってくれてきた。それは全て、陽菜が凌駕の恋人だからだ。  もしも陽菜が凌駕の何者でもなくなれば、みんな平穏に過ごせるのだ。  それならば、自ら身を引くのが正しい答えなのではないか。    もう、五ヶ月が近い。直にお腹が大きくなり始める。陽菜が身軽に動ける時間は長くは残されていない。 『とりあえず、退職と引越しね』電話の向こうで母がため息混じりに言った。 「やっぱり引っ越さないとダメ? ……だよね?」 『一人用のマンションで子育てなんて無理ありすぎでしょ。明日そっち行くから』言いながら、何やら忙しく動き出した。きっと通話をスピーカーに切り替えて、既にこっちに来る準備を始めている。母は昔から決断も行動も早い人だ。  陽菜がウジウジと悩む性格は父親に似ている。  母は凌駕との番が無効化されていると知っても特に慰めるでもなく、怒るでもなく、今最大の問題である出産と子育てだけに焦点を当てている。  他のことを考えるのは、落ち着いてからでいいと判断したようだ。    電話を切ったあと、陽菜は黒川から貰ったサンドウィッチを食べ、物件探しを始めた。  きっと母が来れば実際に見て回りたいと言い出すに決まっている。陽菜はいくつかの条件をもとに一先ず見学の予約を入れておく。  次に辞表を書いた。  就活には苦労したし、念願叶って入社した大手企業。勤務年数が三年も経たないうちに辞める選択肢を選ぶ事態になるとは思いも寄らない。未練がないわけではないが、遅かれ早かれ問題は起きたとも考えられる。  妊娠中にも発情期が来るのは証明されている。  辞めるタイミングとしては、今が最適としか思えなかった。  終業時間を過ぎて、黒川からメッセージが届いていた。三日後に専務との席を設けたとの旨が記されていた。それまでは在宅勤務でいいと続いていた。  黒川の計らいでデザイン課へ移動できたのは良かったものの、どう考えても役に立ってるとは思えない。  黒川も忙しい人だ。陽菜のために時間を割いてもらうのは心苦しさを感じていた。  黒川への返信に、凌駕に連絡しなかった旨は記さなかったが、黒川もそこには触れないでいてくれた。  専務との話し合いまでに、母が嵐のようにやってきて、物件を見て周り、その日のうちに契約をした。陽菜の名義では退職を考えているからきっと審査が通らないと言って、母の名前で契約書にサインをしてくれた。郊外にある、小さいけれど一軒家で、公園や病院、学校も徒歩圏内にある、緑豊かで心地よい街だ。  その上、一ヶ月後には入居可能だと言われ、母は「忙しくなるわ」と意気込む。  陽菜の引っ越せる日程は今のところ断定できない。母は先にこっちに引っ越して陽菜が直ぐに生活できる環境を整えておくと言ってくれた。  そのお陰で、陽菜は自分が向き合うべき問題と向き合えた。  仕事だけではなく、咲坂のところへ行き、引っ越す経緯を話した上で新しい病院を紹介してもらう。  偶然にも引っ越し先の直ぐ近くの総合病院のオメガ専門医は、咲坂と仲が良く頼もしい先生だと言ってくれた。産科もあるから出産の心配もしなくていいとのことだった。  翌日には紹介してもらった先生の所に出向き、話をする。咲坂から個人的に連絡を取ってくれていたらしく、発情期中に入院できるシステムがあることも教えてくれた。  テキパキと診察や説明をしてくれる人で安心した。  とりあえず、出産の件は大船に乗ったつもりでいても良さそうだ。  明日はいよいよ専務と話をする日で、夜になって緊張してきた。  書いた辞表をカバンに忍ばせ、早めにベッドに入ったものの、あまり寝付けなかった。  

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