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第49話 噛み痕が消えるまで②
翌朝は黒川が迎えにきてくれた。
「迎えに行くって言うと陽菜ちゃん断るでしょ? だから、これは強制ね。上司っぽいでしょ」
黒川がわざと明るく振る舞うので、陽菜も暗くならないよう努める。
朝礼前に専務との面会を取り付けているとのことだった。
直接会って話すのは初めてだ。専務から二人きりで話したいと言ってきたそうだ。
怒鳴られるだろうか、会社での失態は社員に大きな影響を及ぼしたはずだ。その上、本社に必要な凌駕を期間限定とはいえ手放したのだ。会社にとっては大きな痛手になっているだろう。凌駕の穴埋めができる人材はそういない。なんと謝罪をするべきなのか、考えただけで胃が痛む。
心の準備も整わないまま会社に着いてしまい、陽菜は手に汗を握る。
黒川は「専務は温厚だし、リラックスして大丈夫だよ」と言うが、陽菜は一応まだ新人社員である。それも、二度も会社でヒートを起こした問題児だ。快く迎えてくれるなど、期待はしていない。
エレベーターで目的の会議室まで行くと、黒川はデザイン課で待ってると言って行ってしまった。
ドアをノックする。
「失礼します。東雲陽菜です」
声をかけると、返事が返って来るかと思いきや、中からドアが開けられた。
白髪混じりの、陽菜より少し背の低い男性だった。目尻には細かい皺が刻まれていて、五十歳半ばだったかと思い出す。それでもスリーピースのスーツを着こなす品の良さとセンスはアルファ独特のオーラを纏う。
「おはよう、どうぞ入って」
「失礼します」
静かにゆっくりと喋る専務は本当に一人でいたようだ。(てっきりもっと色んな人に取り囲まれると思っていた)
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「私が早く来てしまっただけなので、気にしなくていい。こうして顔を見て話すのは初めてだったね。ずっと、謝らないといけないと思っていたんだが、遅くなって重ねてお詫びさせて欲しい」
白瀬専務は陽菜に向かって直角に体を曲げた。
これには驚いた陽菜は慌てて止めに入った。
「なぜ、専務が謝るのでしょうか。悪いのは僕の方です」
「甥っ子が酷い真似をしてしまった。君との一件で大事になってしまい、流石にこれで大人しくなると期待していたのに、先日また君に迷惑をかけたと耳にしてね」
話しながら専務は陽菜に座るよう促す。
会議室とはいえ、上階のここはきっと重役しか使わない部屋なのだろう。これまで陽菜が利用していた会議室とはクオリティが違う。
座るよう手を差し出されたのは革張りのソファーだった。
専務は亡き弟の一人息子を引き取り、溺愛して育てたのだと言った。自分にはアルファの妻がいるが、子供には恵まれなかった。なので余計に白瀬が可愛くて仕方なかったそうだ。
「あの子がああなってしまったのは、全て私の責任なんだ。会社には、オメガだっていると何度言っても抑制剤を持ち歩かない。今回のような事件は遅かれ早かれ起こったことだった。それが東雲くんだったというわけだ。本当に申し訳なかった」
まさか謝罪を受けるとは思わず、頭が混乱してしまう。
「東雲くん、君は周りから愛されているんだね。望月君が必死に君を守ろうとしていた。黒川くんも、営業部の子たちも、口を揃えて東雲は会社に必要な人ですって訴えてきた。私は羨ましく思ったんだ。甥も、そんな風に育てるべきだった」
「そんな、烏滸がましいです」
専務はかぶりを振る。
白瀬は陽菜に詰め寄った翌日付けで解雇したと報告された。
「決断するには遅過ぎたけどね」
専務は組んだ手を膝に乗せ、視線はそこに定まっていた。
陽菜はその手をじっと見ている。
少しの間、沈黙が流れた。
陽菜は今がその時だと自分に喝を入れ、鞄から辞表を取り出した。
専務に渡しても意味がないのかもしれないが、退職を許可してくれるのはこの人しかないと思った。
在宅勤務にしてもらったこの三日間で自分なりに考えた理由を述べ、妊娠は隠したが、自分が退職したい旨を申し出た。
専務は白瀬がいなくなったから問題ないのでは……と言ったが、陽菜はそれこそ今回の相手が白瀬だったというだけで、今後も同じような事件が起こらないとは限らない。その度に周りの人に迷惑はかけられないと頭を下げた。
「オメガだと隠して入社してしまい、本当にすみませんでした。でもこの二年の間に沢山のことを学ばせてもらい、本当に感謝しています。だからこそ、これ以上足手纏いになりたくありません。限界を感じたのもありますが、決して後ろ向きに決心したのではありません」
専務は辞表と書かれた封筒をじっと見詰める。
「これからは、オメガとして本当の幸せはなにかを探したいと思っています」
それはお腹の子供を指しているが、はっきりとは言わない。
専務もそう言われては考え込んでしまい、「私にはきっと引き留める権利はないんだ」と言った。
「東雲君の意思を尊重したいと思っている。私から人事部へ話を通しておくよ。けれど、これも後ろ向きに承諾したのではない。君の選んだこの道が幸せになる第一歩になるならという考えからだ」
「はい、ありがとうございます」
陽菜はこのままデザイン課には寄らず、帰宅が許可された。
残っている有休消化という名目で、もう会社には来ないまま退職を迎える運びとなった。
会議室を出ると、ホッと肩の力が抜けた。
退職が認められ、安堵している気持ちの裏でやはり寂しさはある。
それでも前に進まなくてはならない。
黒川に挨拶もせず立ち去るのは不義理だと思いつつ、顔を見て説明すれば、黒川は退職を取り消してくださいと言い出すに違いない。
エレベーターに乗り込むと、そのまま一階まで移動し、会社を出た。
その足で携帯ショップに立ち寄り、連絡先の番号を変えた。もう、誰にも甘えられなくするための戒めだ。
凌駕や高槻たちとの思い出は消えない。陽菜の心でずっと輝いている。
自分のマンションともお別れの日程が決まった。狭い部屋を見渡す。
一度だけ凌駕が来てくれた。今はもう、匂いも残っていない。
「ダメダメ、悲観的になるな、陽菜。僕にはこの子がいる。これからは、この子のためだけに生きていくって決めたんだ。やらなくちゃいけないことが山ほどある」
自分に言い聞かせ、凌駕の幸せを願った。
どうか、幸せになってくださいと。自分とは報われなかったけれど、陽菜のいない未来で凌駕が笑っていてくれれば良いと思う。
噛み痕はいずれ消える。
もう二度と会えない覚悟の上、決断した。
でも、それでも、凌駕と愛しあった日々を忘れたくない。
唯一持っていたハンカチを抱きしめ、一人の部屋で蹲る。
「ねぇ、凌駕さん。せめて、この噛み痕が消えるまで、好きでいていいですか———」
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