50 / 61

第50話 時を経て……①

♦︎♢♦︎    引っ越して五ヶ月が経った。頸の噛み痕はすっかり消えてしまった。  凌駕への気持ちが完全に消えたのかと聞かれると、全くそんなことはなく、むしろ凌駕を思い出さない日はない。  もしも妊娠していなければ、凌駕への想いを拗らせて立ち直れていなかっただろう。少しくらい寂しくても、過去の楽しい時間を思い出しても、「この子がいるから」と思えば救われる。妊娠は、何よりの支えとなっている。  会社を辞めてから一度だけ発情期に入ったが、やはりヒートが酷くて入院させてもらった。  体力的、精神的に苦しかったのはその時くらいだった。オメガでも妊娠中の発情期は個人差が大きいらしく、全くヒートが来ない人も多数いるらしい。なので、もしかすると陽菜は出産後も早くから発情期に入る可能性は否めないと、新しく担当医になった斎宮から言われた。  しかしそこは大きな病院。産後の発情期中のフォローも充実していて、赤ちゃんと共に入院できるので心強い。 「東雲さん、お腹大きくなったわね。もうそろそろですか?」 「はい。僕は計画出産なので、入院の日も決まっています」 「そうなんですね。楽しみですね」  近所の人との会話も、出産に向けての励ましが多くなっている。  この街は周りに知り合いが一人もいない状態からのスタートだったが、今では近所の人と軽い会話を交わすくらいになっていた。  お腹は随分大きくなって、番のいない男のオメガだと冷ややかな目で見られるのではないか不安はあったが、誰もが温かく接してくれるので安心した。  少し前の検診で、赤ちゃんは男の子だと診断された。活発にお腹の中で動いてよく蹴られる。  その度、陽菜は感激してお腹を撫でて話しかけている。 「早く会いたいね。元気に産まれてきてね」  そうすると、答えるようにまた見事な蹴りが入るのだ。    男のオメガは自然分娩は危険が伴うので、基本的に帝王切開なのだと説明された。  入院する日まで一ヶ月を切っている。  リビングや寝室に増えたベビー用品を見るたび、出産への期待が膨れていく。  二ヶ月後には、ここで赤ちゃんと母と三人での生活がスタートしている。今はまだ実感できないが、ワクワクする気持ちは抑えられない。 「陽菜、今日はベビーベッドが届くからね。組み立てはパート先の人が来てくれるって。お菓子とお茶の準備だけお願い」 「分かった。パート行ってらっしゃい」 「行ってきます」  母は陽菜ではなく、お腹の赤ちゃんに話しかけている。孫が産まれると、地元で言いふらして来たらしい。同級生に知られるのは嫌だけど、父も母も喜んでくれているから咎めたりはできないし、これが親孝行になっていたなら良いと思う。父は相変わらず仕事が忙しそうだが、陽菜の妊娠を知ってからは頻繁に連絡を取るようになった。出産の時は、意地でも仕事を休んで来ると意気込んでいる。  平穏な時間が流れていく。生活の合間で子供の名前を考えていた。  母にも誰にも言っていない。  自分でもこれをしてしまうのは未練がましいのではないかと悩んでいるが、本人にバレることもないし……と考えなくもない。  臨月に入ってからは、無意識で腹を撫でていた。この丸みは本当に無くなるのか……想像ができない。華奢でぺたんこだった頃の自分のスタイルがどうだったかなど、遠い記憶のように思えた。  出産したら、またお腹はへこんでくれるのか、そこは若干心配ではある。    冬が終わりを告げる頃、いよいよ入院の日を迎え、タクシーで移動した。  もっと緊張するかと思ったが意外にもリラックスしている。  帝王切開は三日後。  それまでは安静にしつつ、本を読んだり院内を散歩して過ごした。  出産当日は母が朝から付き添ってくれた。 「体調はどう?」 「うん、凄く良いよ。今日、いよいよ赤ちゃんと会えるね」 「そうね、楽しみだわ。でも陽菜の無事が大事だからね」 「分かった。ありがとう」  手術中にヒートを起こさないよう、全身麻酔をする。眠りから醒めれば、念願の子供に会える。逸る気持ちを抑えられない。元気に産まれてきてねと祈りながら、麻酔が誘う眠りにつく。  意識が戻った時には個室のベッドに戻っていた。ぼんやりと天井を眺め、そして部屋全体を見渡した。  母が寝ている。窓のカーテンは閉められていて、どうやら夜なのだと理解した。 「お母さん」小声で呼ぶと、直ぐに反応が返ってくる。 「起きたのね。具合はどう?」 「頭がぼんやりするけど、大丈夫。赤ちゃんは?」 「陽菜が寝てる間は預かってくれてる。ナースコールするわね」  陽菜の頭元のボタンを押すと、ややあってナースが保育器を押しながら入室した。 「赤ちゃん、今はぐっすりと眠っているんですよ」  ベッドの隣に保育器を寄せる。小さな手が見えた。 「抱っこは起きてからにしますか?」 「はい。せっかく良く眠っているので」 「何事もなく産まれてきてくれました。健康状態もバッチリです。おめでとうございます」  ナースに言われ、じんわりと目頭が熱くなった。  腹に手をやると、張りのあったそこが萎んでいる。本当に、出産したんだと実感したが、大きなお腹に慣れて違和感もある。  それでもすやすやと眠る我が子は可愛くて、いつまでも寝顔を眺めて過ごしたい。  ナースと、母と三人で、しばらく話をした。  そのうちナースは「いつでも声をかけてくださいね」言いながら、退室した。 「陽菜も、赤ちゃんが寝てるうちに体を休めなさい。」  母の言葉に従い、目を閉じる。まだ麻酔の余韻が残っているのか、呼吸を三往復する間に眠りについた。  その後は順調に術後の体も回復し、十日ほどで退院をした。  タクシーで家に帰ると、早速ベビーベッドに寝かせる。とても陽菜想いの子供で、夜はしっかりと眠ってくれるし、ミルクもしっかり飲んでくれる。  もっと悪戦苦闘するかと身構えていたが、杞憂に終わった。そもそも、術後にここまで動きが制限されるとは、説明を受けていたとはいえ想像するには限界がある。入院中の子供の世話は、殆どナースに任せっきりだった。  その上、自分自身が動けるようになるまでに随分と時間がかかり、入院が長引いてしまった。  結局、自宅に帰れたのは二週間と少しを過ぎていた。  悪戦苦闘はそれからだった。入院中の経験不足は、母の手助けがなければ補えなかった。  毎日必死で、子供が寝ている間は一緒になって爆睡していた。そうでもしなければ、とても保たない。神経も体力もすり減らし、毎日へとへとだ。  それでも我が子はどんな時でも可愛くて、スマホのカメラロールには子供の写真で溢れている。 「ねぇ、|凌桜(りょう)、すくすく育ってね」  子供の名前には、凌駕の一字を取って名付けた。  最後まで悩んだが、顔は陽菜よりも凌駕に似ている。確かに引き継がれている凌駕の欠片を、もう会えないからこそ大切にしたい。  桜の漢字を入れたのは、産後の病室から見えていた満開の桜が陽菜を楽しませてくれたからだ。  自ら手放した大切な人の分まで、この子を愛してあげたい。  入院中は陽菜の心の拠り所になってくれた。凌桜は陽菜の宝物だ。  

ともだちにシェアしよう!