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二章・音のない声②
カラリとベルの鳴り響く音が聴こえてくる。視線だけを入り口の方へ向けると、今まさに思い浮かべていた人物が立っていて驚く。
「いらっしゃい。なにをお求めかな?」
固まるルキノの背後から、ローディンが穏やかな口調で尋ねた。オライオンが、文字を綴った紙をローディンへと手渡す。一瞬紙の内容が目に入り唇を一文字に引き結んだ。見知った薬の名が書かれていたからだ。
「用意するから十分ほど待っていてもらえるかな?」
『いつもお世話になっています。ここの薬はよく効くので助かっているんです』
オライオンが了承するように頷く。ローディンが作業に取り掛かると、ルキノとオライオンの間に穏やかな沈黙が流れ始めた。
手を上げたオライオンが指で備え付けのテーブルを指差す。座ろうと言ってくれているのだろう。従うように腰掛けると、お互いに見つめ合う。無造作に整えられたブラウンの髪は、室内を照らす電球色のせいか普段よりも暗く見える。同様にいつもよりも瞳を占める紫が濃く見える瞳が、ルキノの心情を探り出すように向けられていた。
「ごめん」
ルキノは右手を眉間に持っていったあと、その手をパーの形に広げて胸元にあてる。そのあとお辞儀をしながら言葉を発した。久しぶりに行ったその動きは、十年以上経った今もまだ、体に染み付いていた。
『今のはなんだ?』
魔法が文字を綴る。オライオンには必要のないものかもしれない。けれど魔法のなかった現代日本で、聴覚障害を持つ人々やその家族はこの動きを覚えて日々を強く生きていた。
「手話だよ。君のように聴覚を失った人々が使う声だ」
『初めて目にした。ルキノが考えたものなのか?』
「祖母が教えてくれたんだ。もう亡くなってしまったけれど、彼女も耳を患っていてね……。僕は君がなんでも出来る天才で、悩みなんてないと思っていた。だから謝罪をしたんだよ」
自分が恥ずかしい。苦しいのは自分だけではないとわかっていたはずなのに、上手く行かないことを人のせいにするなど許されない。
どんなに成功している様に見える人でも誰にも言えない悩みの一つくらいは抱えている。そんな簡単なことにすら気づけないほどに、ルキノの心には余裕がなかった。
『気にしないで。それよりも、俺にもシュワというものを教えてくれないか?ルキノともっと沢山話をしたい』
「っ……もちろんだよ」
オライオンがルキノと話したいと言ってくれたことが、全身を温かく包み込んでくれるかのように嬉しかった。口元が緩んでしまう。目尻に熱が灯ったのは、祖母と暮らしていた頃の幸せで穏やかだった頃を思い出したからかもしれない。
「知りたい言葉はある?」
尋ねると、なぜかオライオンの指先がルキノを指してきた。首を傾げると、瞳が柔らかく細められる。
『君の名前を教えて』
「な、なんだそんなことかっ」
心臓が高鳴っていた。砂糖菓子のように甘くすら感じられる微笑みにあてられて、頬が上気してしまう。オライオンと話していると調子を狂わされてしまうことがある。けれど悪い気はしない。違う自分に出会えたような感覚がむしろ楽しくもあった。
「これがル」
小指と薬指を中に折り、他の指をピースするように広げて見せる。真似するようにオライオンが手を動かす。ルキノの手と自身の手を見比べながら、必死に覚えている様子がほんの少し可愛らしくて、胸がギュッと鷲掴みされてしまった。
続いて手を狐のような形に変える。
「これがキ。ホワイトフォックスみたいで可愛いだろう?」
顔の横で狐の手を振って見せる。
ホワイトフォックスは森に生息している小さな狐のような魔獣だ。警戒心が強くあまり人前には姿を現さない。
『ああ、可愛いな』
まるで春風のように優しい微笑みを向けられて、心の深い部分をノックされてしまう。ホワイトフォックスのことだとわかっているのに、自分に言われたような気がして頬が熱くなる。
憎らしかったはずなのに、オライオンと接するたびに気持ちが乱されていく。
「つ、次はノだよ。人差し指を出して、他の指はたたむ。それから手を上から下に動かすんだ」
照れてしまったのを隠すように話題を変える。クツクツとオライオンが喉を鳴らす音が耳に届くけれど、あえて気にしないように心がけた。
『ルキノ』
何度か動きを確認したオライオンは、ゆっくりと手を動かしながらルキノに向かって手話を披露してくれる。
目の奥からせり上がってくるような感動が溢れてきて、思わず唇を引き結び瞳を潤ませてしまう。
「上手だ。教えがいがあるよ」
誉め言葉が震えてしまう。心を震わせる感動に、声の強弱が定まらなかった。
『ルキノのおかげだ。なにかお礼をしたい』
紙に記された文字を見つめながら眉を垂れさせる。見返りが欲しかったわけではない。ただ純粋にオライオンの手助けをしたかった。それは傲慢に思われるほど勝手なお節介。だからなにもいらない。
「お礼なんて必要ない。僕が勝手にしていることだから」
『俺の気がすまないんだ。なにかできることはないかな?』
引く気がないのかオライオンは真剣な眼差しを向けてくる。オライオンならなんだってこなすことができるはずだ。折れたルキノは思案しながら、伝えるか悩むように指先をもじもじと手元で交差させて弄ぶ。
忙しなく動く指先へ視線を落としながらお願いしていいのか不安になる。
「本当になんでもいいのか?」
オライオンが問いかけに頷いてくれる。ルキノがこれまでずっと願い続けてきたことはただ一つだった。
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