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二章・音のない声④

とりどりの商店が並ぶ大通りを共に進んでいく。肩に回された腕はそのままだ。距離が近いせいか、時々オライオンの胸板に頬があたる。そのたびにホーンラビットのように心音が飛び跳ねる。 「近いんだけど……」 『顔が赤いね』  赤くなっているはずの顔を見られないようにうつむき、つぶやくように抗議の声を上げる。蚊の鳴くような小さな声音は、口元を見ることのできないオライオンには届いていない。  様子を伺うように顔を覗かれて、ぐっと喉が鳴る。至近距離での尊顔の破壊力に息が詰まってしまった。長い睫毛(まつげ)すら数えられそうなほどに近い。  耐えきれなくなったルキノは、軽く胸元を押して離れてくれるようにお願いした。 『照れてる?』  目の前にふわりと飛んできた紙を読むと、手で荒々しく掴む。クシャッと悲鳴を上げた紙を握りしめたまま、忙しなく視線を彷徨わせた。それから漆黒の瞳でオライオンを睨みつける。 「しかたないだろう!君は格好いいんだから!」  頭の中が混乱してしまい勢いに任せて本音をぶつけてしまう。予想外の返しだったのか、オライオンも目を丸くさせたまま固まってしまっていた。  けれどすぐに糖度過多なほどの笑みを向けてくる。 『もう一回言って』  聞こえなかったのだろうか?それとももう一度同じことを聞きたいのだろうか?  真意はわからない。けれど二度目を言うには気恥ずかしくて、ルキノは声を出すことができなかった。  代わりに手話を使い格好いいと伝える。手話を学び始めたばかりのオライオンには読み取ることはできないだろう。それでかまわない。むしろ理解らないほうがよかった。 『ルキノは可愛い』  頬を撫でられながら、わたあめのように甘い微笑みを向けられてしまう。まるで手話を理解しているような返事だ。受け取った言葉が舌先で溶けてしまうような感覚がして、思わず生唾を飲み込む。 「そんなことないからやめてくれ」 『やっぱり照れてるね』  どれだけ突き放すような言い方をしても、赤く熟れた頬までは隠せない。  オライオンが更に距離を詰めてきて、羞恥心から焦ってしまう。  彼は少しだけ距離感がおかしい。そのことに気がついたルキノは、もう一歩彼から距離を取った。そんな警戒心の塊のようなルキノのことを、オライオンが楽しげな表情で見つめてくる。 「ルキノじゃないか。買い物かい?」  会話を続けようとしたとき、正面から話しかけられて開きかけた口を閉じる。声をかけてきたのがエイリークだと気がつくと、微かに表情を強張らせた。  エイリークのことは嫌いではない。むしろ好ましいと思っている。けれど婚約の件で顔を合わせるのが少しだけ気まずい。 「オライオン君に会うのはガーデンパーティー以来だね」  紫の瞳が弧を描きながらオライオンを捉える。オライオンも同じように切れ長の瞳をエイリークへと向けた。睨み合っているようにすら見える。 「二人は仲がいいみたいだ」  含みのある言い方だ。ほぼ婚約が確定している相手がいるというのに、他の男と出歩いていることを咎めているのかもしれない。けれど、ルキノの知るエイリークはそんなことに頓着するような人間ではなかったはずだ。 「ヒリング魔法薬店に行っていたんです。そこでたまたま顔を合わせたので少し話をしていました」 「フッ、そんなに固くならなくとも大丈夫だよ。怒っているわけではないから」  大きな手がルキノの髪をくしゃくしゃと撫でてくる。エイリークが仲間内によくしているスキンシップだ。  台風が通り去ったかのように渦を巻いている髪をエイリークが整え直してくれる。その間も、オライオンの視線はエイリークから逸れることはない。むしろ段々と眉間にシワが刻まれているようにも見える。 「この子は俺の婚約者だ。触れてもかまわないだろう」 「まだ婚約はしていません」   慌てて否定する。オライオンに婚約者だと思われることが嫌だと感じたから。けれどそう思う理由を見つけ出そうとは思えない。  オライオンも険しい顔のまま。エイリークの言葉が彼に伝わったのかもわからない。 「昔はあんなに懐いてくれていたのに、アラリック魔法学園に入ってから距離ができてしまったようだ」  わざとらしく眉を垂れさせるエイリークに呆れた視線を向けてしまう。彼が自分に本気ではないことはわかっている。結局は家同士の利害関係が一致したからこその婚約だ。  暗い気持ちになりかけたとき、強く腕を引かれて目を見開く。オライオンに引き寄せられたと気がついたときには、すでに胸元に閉じ込められていた。

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