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二章・音のない声⑤
「君が抱きしめているのは俺の婚約者だ。流石に看過 できないな」
『ルキノは婚約はまだだと言っていました』
「たしかに今はまだ婚約関係ではない。けれどすぐに婚約することになる。他でもなく伯爵が望んでいることだからね。それに他人の君には関係のない話だろう」
エイリークは常に穏やかな口調だ。けれどほんの少しいつもよりも苛立っているようだ。口元には感情の読み取れない薄い笑みを浮かべてはいるものの、目の奥には苛立ちが宿っている。
「たかが男爵位の君が──ましてや、その重い荷物 を背負ったままセイン伯爵家のご子息と関わるのはやめておいたほうがいい。アラリック杯を手にした君ならハンデがあろうと先は約束されている」
冷たい言葉だった。まるで霰石 のように吹き荒れる静かな怒りが肌を刺してくる。エイリークの言葉はオライオンと同時にルキノの胸をも凍り付かせた。
──僕はずっと気高い伯爵家の一員になろうと必死だった。そのはずなのに、オライオンと共にいるときだけは自身の立場を忘れてしまえる。
その事実に深く衝撃を受けてしまう。
「誰と関係を持つのかは僕が決めます。それ以上オライオンのことを侮辱 するのはやめてください!」
「かばうのかい?」
「……そう捉えていただいてかまいません」
気が付くと庇うように言い返してしまっていた。折角出来た友達を傷つけられたくない一心だ。
オライオンは確かに耳を患っていて、声を聞くことはできない。けれどそのぶん、表情や行動に敏感だ。口を見て言葉をわかるようになるまでには過酷な訓練も必要だったはず。
彼は努力家だ。驚くほどに強く、勇敢で、そのくせ繊細。
そんなオライオンだから助けたくなったのかもしれない。手を貸してあげたいし、守ってあげたかった。
「……ルキノ、君らしくないな。いつもの聞き分けの良さはどこに行ったんだい?」
「っ、オライオンは友達です。エイリーク様だって騎士団員を馬鹿にされれば怒るはず。僕も同じです」
産まれて初めて、ルキノはエイリークのことを尊敬以外の眼差しで見ていた。オライオンを侮辱された怒りと、兄のように慕っているエイリークの心無い言葉への悲しみ。それらが混ざり合い、ルキノの黒い瞳に宿っている。
「まったく……。ルキノの頑固さだけは何年経とうと変わらないようだ。一先ず今日は伯爵家に帰ったほうがいい。それくらいは言うことを聞いてくれるね?」
問いかけるような言い方だが、拒否できる気がしなかった。オライオンは未だに怒りを露にしている。争いが起こってもおかしくはない。
辺りを見渡す。人の往来 が多く、魔力量の多い二人がぶつかりあえば危険だ。ここは大人しく言うことを聞いておくしかないだろう。
「オライオン、今日は帰るよ」
オライオンへ顔を向けると、ゆっくりと口を動かして伝える。すぐに怒りを抑えてくれた彼は、ルキノの申し訳なさそうな顔を見てくしゃりと表情を歪めた。
『次会うときには魔法を教える』
「あぁ、約束だ」
約束を交わし合うと、エイリークの元へと向かう。手を取られて、心臓が嫌な音を立てる。振り返るとオライオンが色の宿らないブルーグレーの瞳で二人のことを見つめていることに気が付く。その視線から顔を背けると、エイリークに連れられるまま、暗い気持ちで大通りを進み始めた。
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