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二章・音のない声⑧

 頬を流れる涙を美しい指先が拭ってくれた。撫でられるときのくすぐったさや、肌の触れ合う温もりが好きだ。 「お礼なんて言われるようなことはしてないよ。僕が勝手に教えてるだけだから」 『それでも感謝したいんだ。誰かと会話をすることが夢だったから。その夢をルキノが叶えてくれたんだよ』  そんな大層なことはしていない。会話を避けて孤独を貫いていたオライオンに、人と触れ合うことの楽しさをただ知ってほしかった。  手話はそんな気持ちを抱えたルキノのお節介の産物だ。 『十歳に差し掛かる頃に魔力過剰障害と診断されたんだ。人よりも遅く発症したせいか手の施しようがなくて、少しずつ俺の中から音が失われていった。十四歳になる頃には完全に耳は聴こえなくなっていた。とても怖かったよ。その恐怖がルキノのおかげで薄れた。だからありがとう』  思いの乗せられた紙を手に取り、優しい手つきで撫でる。そんなふうに思っていてくれることがありがたい。手話を教えることは、ただのエゴだと感じていた。だから、オライオンの学ぼうとしてくれる姿勢や、人と話したいという強い気持ちに、ルキノも心から感謝してしまう。 「よかった……オライオンがそう思ってくれているのなら教えがいがあるよ」  目尻に溜まった涙を拭う。それから花が咲いたような満開の笑みをオライオンへと向けた。 『またここに来てもいいかな?』  文字として浮かび上がった問いかけに、ルキノも素直に来てほしいと伝えたかった。けれど、それができず目をそらしてしまう。伯爵家を抜け出すことはできる。けれど婚約が決まってしまったら来ることはできなくなるだろう。 「……僕も君とまたここで話したい。でも難しくなるかもしれない」 『婚約が決まったから?』  核心を突かれて、鼓動が嫌な音を立てる。確定してはいない。けれど時間の問題だろう。レオナルドに自分が伯爵家の役に立つのだと認めてほしい。そうすれば伯爵家に残ることができるかもしれない。けれどどうやっても形を残すことのできない現状では、幻想にほかならない。 「違うんだ……ただ、伯爵家の仕事が忙しくて」  本当のことなど言えない。言葉を濁したとしても、オライオンにはバレている気もする。それでも突きつけられる現実と向き合うことができず嘘をついてしまった。  彼と過ごす時間が好きだ。隠しきれないその想いを本人に伝えることは気恥ずかしいし、言葉にしようとしても喉奥でつっかえたように出てこない。  テーブルの上で握りしめた手に強く力が入り白くなる。どれだけ隠そうとしても態度や仕草に気持ちが滲み出しまう。オライオンと過ごす穏やかな時間が好きだ。 『魔法を教える約束をしていただろう』 「そうだね。でもそれも難しいかもしれない……」 『一つだけ簡単に覚えることのできる魔法があるんだ。きっとルキノでも扱える』  握りしめた手を、オライオンの手のひらが包み込んでくれる。その温かさに胸が跳ねる。お互いの心音が重なり、規則的な音を奏でている。その音が聞こえてきそうなほどの静寂が室内を満たす。  宙を舞っていた紙が繋いだ手の下へと滑り込み横たわる。 『小鳥が大空に舞うイメージをしてみて』 「うん」  魔法はイメージだとよく比喩される。言われたとおり小鳥が青空を悠々と飛び回る姿を想像してみた。天高く、どこまでも高みを目指す。それはルキノが目指している姿そのものだ。  理想だけが積み重なり、実力が追いつくことは一向にない。歯を食いしばり、自分なりに飛び立とうとしていた。それでもルキノには折れた羽しか与えられなかった。 「力を抜いて。君ならできる」  そう聞こえた気がした。繋がれた手が瞳の中にしっかりと映り込んでいる。顔を上げると、励ますようにルキノのことを見つめてくれているオライオンと目が合う。それに気がついた瞬間、体から力が抜けた。体内から嫌なものが消え去り、残ったのはじんわりと温かい穏やかさ。 「ありがとう」  今は手話が使えない。だからゆっくりと口を動かす。伝わったのか、オライオンがふわりと笑みを向けてくれた。その瞬間だった──  手の下に敷かれた紙が手元からすり抜けて宙へと浮く。そうして立体的な折り紙のように形を成し始めた。 「……小鳥」  紙で出来た小鳥がルキノの周りを旋回する。まるで本当に生きているかのようだ。 「これって浮遊呪文?」 『応用だよ。会えなくなっても、この呪文があれば簡単に手紙のやり取りができると思って』 「っ、君は本当にすごい人だよ……」  お互いの心がこの魔法一つで繋がったように感じる。ルキノの魔力量でも扱える魔法は多くはない。オライオンの気遣いや優しさが心を強くしてくれる。まるで支柱のようにルキノを支えてくれている。  紙の小鳥が肩に止まり、鳴く素振りをする。実際に音は出ていない。それでもルキノにはしっかりと小鳥の鳴く声が聞こえた。 『魔力が底を尽きるまでは飛ぶことができる。薬屋に手紙を飛ばしてくれれば、俺が受け取りに来るよ』 「わかった。ローディンさんに伝えておく」  幼子のように天真爛漫な笑みを向けると、唇を引き結んだオライオンが頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。エイリークにされたときには感じなかった心地よさや愛おしさが溢れてきて、胸の中が痛む気さえした。  受け入れたらいけないとわかっていても、ルキノはオライオンと関わっていたいと思ってしまう。

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