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四章・条件と決別④

ベルの音が耳に届く。視線を向けると、オライオンが中に入ってくるのが見えた。ローディンは席から立ち、薬作りを再開し始める。 『久しぶりだねルキノ』 「ようやく会えた」  オライオンの顔を見ていると涙が出そうになる。我慢しろと自身に言い聞かせても、こみ上げてくる感情の波が止められそうにもなかった。だから気分を晴らすように笑みを浮かべる。下手くそで、今にも泣いてしまいそうな笑顔。 『なにかあった?』  隣に腰掛けたオライオンが、ルキノの頬に向かって手を伸ばしてくる。その手を掴むと、甘えるように頬を寄せた。温度の高いオライオンの手が心地良い。もっと触れていたい。奥底まで満たしてほしい。そんな欲に駆られてしまう。  エイリークの元に嫁いだとしても、ルキノはオライオンから与えられた大切な温度や記憶を忘れられない。憎いと思った瞬間。嫉妬で狂いそうになった日。  アラリック杯を堂々とした出で立ちで受け取っていたオライオンの背中を、羨望の眼差しで見つめていた瞬間が確かにあった。  けれどそれ以上に、大きな感情を教えてもらった。  人を慈しむ心や、大切にしたいがために臆病になってしまうことも。愛することがこんなにも苦しいものなのだということも知った。 「オライオン、僕は君のことが大好きだ」  口元はオライオンからは見えていないだろう。見えていたとしてもかまわない。知っていてほしいと思いながらも、知らないでほしいという願いもある。隣り合わせの矛盾した感情がルキノの胸の中で渦巻いていた。 「エイリーク様と婚約することにしたんだ」  今回は見えるように顔を上げてはっきりと伝えた。ブルーグレーの瞳が物言いたげに丸く見開かれる。  キスを交わし合った日にお互いの心が通じ合っていることを感じた。けれど好きという気持ちだけでは解決しない柵が目の前には沢山聳(そび)え立っている。もしももっと違う立場で出会えていたなら、こんな風に悩む必要もなかったのかもしれない。 『家のため?』 「そうじゃないんだ」 『なら、脅された?』 「……それも違う」  当たっていたとしても、頷くことはしない。はっきりと理由を話さないルキノに焦れたのか、オライオンが両手で頬を掴んで無理矢理顔を自分の方へと向けさせる。  いつもならどれだけだって見つめていられる。けれど今は見つめ合うことが怖い。紙に綴られた文字を横目で追いかける。  魔法で書かれているとはいえ、オライオンの心を知るには文字だけでは限界があった。手話ならそれを可能にできると信じていた。 『俺にシュワを教えてくれるんだろう?』 「……ごめん」  音のない声が二人の間から消えていく。  婚約をすればオライオンを救うことができる。力のないルキノには、人の手を借りるしか方法がない。エイリークの条件を飲むことで、愛する人を救えるのなら人生を捧げてもかまわない。 「君を救いたいんだ」 『そんなことは頼んでいない。ただ側にいてほしい。それだけで充分だ』 「……決めたんだ」  救ってみせると決めた。だからどれだけ否定されても、受け入れてもらえなくてもやり遂げたい。  沢山の夢の中から、ルキノはオライオンを救うという選択肢を手に取った。それがオライオンと違える道だとしても歩みを止めることはない。 「エイリーク様は優しい。僕のことを好きだと言ってくれているし、大切にしてくれる。研究だって進められる。だから……ッ」  口から出るのは思ってもいないことばかり。いくらエイリークが愛してくれたとしても、本当に愛する人と共にいられないのなら幸せとは呼べない。もしも幸せだと口にしたとするなら、それはただの空虚な絵空事だ。  オライオンの悲しみを感じ取ったのか、妖精が彼の周りを飛んでいる。美しい人。愛されるべき人。  ルキノが目標に掲げる偉大な魔法使い。 「ごめん。僕を愛することをやめてほしい」  忘却魔法でも使わない限り無理だろう。それでもあえて伝えたのは、決意を知ってもらうためだった。本気なのだと理解してもらうためだ。  今にも泣いてしまいそうなほどにくしゃりと顔を歪ませたオライオンに、そっとキスをする。エイリークがどこかで見ているだろう。それでもかまわなかった。  ルキノを手に入れることはできたのかもしれない。けれど心までは渡すことはできない。この気持ちはすべてオライオンに残していく。それがせめてもの意趣返しだ。  背に回された腕は力強い。離したくないと伝えてくれている。それが泣きたいほどに嬉しい。それなのに実際は悲しくて涙が出てくる。  オライオンの前では泣いてばかりだ。  祖母の前でもルキノは良く泣いていた。心を許せる人だから素の自分を見せることができる。  すぐに離れた唇には、微かな熱が残っていた。爽やかな柑橘の香りが鼻腔をくすぐり、月のように甘美なブルーグレーの瞳が見つめてくれる。オライオンの腕の中は居心地が良すぎる。だから本当は離れられなくなる前に距離を取るべきだ。  それが歯を食いしばるほどに難しい。 『ルキノ愛してる』  体を離したオライオンが音のない声で伝えてくれる。染み渡るように切ない声だった。声音は聞こえなくても、伝わってくる感情に誘われて瞳から大粒の涙が溢れ出る。 「僕も愛しているよ」  同じように手話で思いを伝える。  これがオライオンと交わす最後の手話になるかもしれない。  二人だけの秘密。二人だけの心の声。  ヒリング魔法薬店の中に浮いていた紙がひとりでに浮遊し始める。次から次にどこからともなく増えていく紙達は、二人を取り囲むように宙を舞う。  見覚えのある会話が並んでいる。魔法で綴られた文字が紙から浮き出て、まるでプラネタリウムのように白い壁や天井に映し出された。

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