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四章・条件と決別⑤
それはルキノとオライオンが共に過ごしてきた囁かで穏やかな時間の記録だった。
『人と話すことの楽しさをルキノが俺に教えてくれた。文字を追いかける君の黒い瞳が美しくて、ずっと見ていられた。君がどこに行こうとも、俺はずっと君を愛し続ける』
その言葉だけで充分だ。
もらった言葉を胸に刻めば強く生きていける。
「もうさようならをする時間だ」
あえて話を切ると、オライオンが強く腕を掴んできた。焦りの垣間見える表情が、隠そうとしても隠れない心の弱い部分を刺激してくる。掴む手にはやけに力が入っていて微かに痛む。こんなにも余裕のないオライオンの姿を初めて見る。
ルキノはオライオンの手を優しく外すと、涙の流れる悲しい笑みを浮かべながらもう一度だけ「さようなら」と伝えた。
ゆっくりと扉を開けて外に出る。嫌になるほどの晴天に胃のムカつきが抑えられなかった。自分でも驚くほどに歩みは遅い。エイリークはすぐ近くに居るはずだ。けれど一向に足は進まない。一歩踏み出すたびにオライオンから遠ざかっていく。それが怖い気さえしてしまう。
「ルキノっ」
囁くような声が聞こえた気がして振り返った。数分開けて店から飛び出してきたオライオンが、駆けてくる。
少し離れた位置まで進んでいたルキノは、思わず足を止めてしまう。その刹那、ルキノの瞳にオライオンに向かって突っ込んでいく馬車の姿が目に入る。御者は突然飛び出してきたオライオンに気づき馬を止めようとする。けれどスピードがあるためか間に合いそうにもない。
オライオンは耳が聞こえないせいか馬車には気づいておらず、一心不乱にルキノの元へと駆けてこようとしていた。
気がつくと足が勝手に動き出していた。魔力の低いルキノはただの人間と変わらない能力しか身に着けていない。それでも助けないといけないと判断したのは、大切な人を守るための行動に柵や実力など考えている余裕はないと無意識的にわかっていたから。
「オライオン馬車が!」
必死に叫ぶけれど、オライオンは上手く口元を読み取ることができないようだった。近づいてきた距離。ルキノは意を決すると勢い良く地面を蹴り、オライオンに覆いかぶさる。
(間に合わないっ!)
衝撃に備えるように固く目を閉じた。その瞬間だった。突然動きを止めた馬車が宙を浮遊する。それからルキノ達と距離を取るようにして、地面へと降ろされた。
風と浮遊呪文の応用技だ。それに気づいたとき、エイリークが駆け寄ってくるのが視界へと映った。
未だに現状の飲み込めていないオライオンへ声をかけようと口を開く。けれど言葉を発する前に、辿り着いたエイリークがオライオンの頬を思い切り殴り飛ばした。
「っ、ぅ……」
「オライオン!エイリーク様、なにをするんですか!?」
口元から血を流すオライオンが心配で手を伸ばそうとしたが、エイリークに腕を引かれ阻止されてしまう。そのまま引き寄せられて、うずくまるオライオンを見下ろす形になってしまった。
ブルーグレーの瞳がエイリークへと向けられる。
「ルキノを危険に晒した君に、ルキノへ触れる資格はない」
「エイリーク様!オライオンは耳がっ」
「だから仕方ないと言いたいのかい?俺は彼に忠告をしたはずだ。君はルキノを守れない。そのハンデを抱えながらルキノを守りきるなど戯言だ。優しいルキノは今回のように君を助けようとするだろう。だからこそ君からルキノを手放すべきだ」
「エイリーク様々やめてください……僕は怪我なんてしていませんし、今回のことはオライオンが悪いわけではない……」
「俺が居なければルキノは大怪我をしていただろうね。どれだけ素晴らしい魔法を扱えたとしても、肝心なときに役に立たなければ意味がない」
エイリークの言葉は正論だ。けれどオライオンにとってはあまりにも酷(こく
)すぎる。黙ったままエイリークの話を聞いていたオライオンは、立ち上がるとルキノへと視線を向けてきた。
数秒の沈黙。ゆっくりと唇が噛み締められる。その後、そらされた視線が空を切り、形のいい眉が歪なハの字へと変化する。その一連の流れの中に、オライオンの迷いや気持ちがすべて詰め込まれているようだった。
オライオンの指先が動き始める。見たくないと無意識に思ってしまったのは、内を渦巻く嫌な予感から目をそらせなかったからだ。
『ごめんルキノ』
「嫌だ……」
『ごめん』
「嫌だっ、オライオンっ!やめてくれ!」
止まったはずの涙が再び流れ始めた。
手話でひたすら謝り続けるオライオンへ、壊れた玩具のように何度も嫌だと伝える。見たくない。その声を聞きたくなかった。
ルキノにとっての手話は未来を広げる可能背を秘めたものだった。人々の心を包み込み、相手との絆を深めてくれる。それなのに今は、手話を見ることが辛い。悲しみだけがその場に存在していた。
見たくないと駄々をこねても、オライオンはやめてはくれない。泣き崩れそうになったルキノをエイリークが横向きに抱き上げてくれる。暴れようとするけれど、眠りの魔法をかけられてしまい、全身から力が抜けてしまう。
瞳が閉じていく。その微かな隙間から見えたのは、オライオンの目元から頬へと流れる悲しみの結晶だった。
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