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五章・無月に咲く花⑦
なにかに頭を小突かれて目を覚ました。辺りはまだ薄暗く、朝が来るにはもう少しかかるだろう。寝袋から体を起こすと、目の前に紙でできた小鳥が居ることに気がついた。頭を小突いてきたのはこの小鳥だったようだ。
なにかを知らせるように目の前で翼を広げながら揺れている。
「グルルッ」
ふとうめき声のようなものが耳に届き、慌てて立ち上がった。目を凝らしてみると、木々の隙間から犬のような魔獣が顔を覗かせている。口元や足が岩のような表皮に覆われており、鋭い犬歯が飛び出ていた。状態異常に強いことで知られるストーンウルフだ。魔獣の中でも攻撃的なことで知られており、群れで行動する厄介な種だ。
状態異常耐性のおかげでこの森にも足を踏み入れられたのだろう。魔獣に出くわさなかったため油断していた。慌てて鞄を背負ったルキノは一目散にその場から駆け出す。
「アオーン!」
仲間を呼ぶように遠吠えをしたストーンウルフは、鳴き終えるとすぐにルキノの後を追いかけてきた。ルキノの足では逃げ切ることは難しい。オライオンやエイリークとは違い、魔獣を倒すだけの魔法も使えない。
こういった状況を想定していなかったわけではなかった。対処するために道具も用意していたが、あまりにも急な出来事に驚いて道具を出す暇もない。
(こんなところで魔獣の餌になんてなってたまるか!)
必死に足を回転させる。どこに向かっているのかもわからないまま、幹や枝といった障害物を利用して逃げ回る。
「ガウッ!」
すぐ真後ろまで来ていたストーンウルフの一匹がルキノへと飛びかかってきた。避けようとして一歩を踏み出しながら前屈みになる。その刹那、急に地面が消えて体勢が大きく崩れる。景色偽装の魔法がかけられていると気がついたのは、踏み込んだ先にあった崖から落ちていく途中のことだった。どうやら罠だったらしい。
(やばっ……このままじゃ地面に……)
そう思った瞬間、運良く崖に生えていた木に服が引っかかり、落下が止まる。しかし、背負っていた鞄が衝撃で下へと落ちていってしまった。
唖然としてしまう。鞄の中には食料や地図が入っている。ルキノの命綱のようなものだ。魔獣が生息する森の中で、食料や土地感もないまま過ごしてどのくらい生き延びられるだろうか。強い恐怖が襲ってくる。
引っかかっている枝も、時間経過で折れてしまいそうで不安になる。焦らないように深呼吸をすると、下を確認して降りられそうな場所を見つけた。
(しっかりしろ!)
大丈夫だと言い聞かせる。下に降りることができれば荷物が見つかるかもしれない。そう思うことで自身の心を奮い立たせる。
ゆっくりと枝を伝い、人が一人分歩けるほどの道に足をつく。横歩きしながら壁伝いに進んでいくと、下へと降りていけそうな道を見つけて安堵した。
(どこに繋がってるんだ?)
上を見上げると、先程落ちてきたと思われる場所が遠くに見える。随分と落ちてきたようだ。ほんの少しだけ全身が傷んだが、擦り傷以外の外傷はない。
歩いていると最深部らしき場所へと辿り着いた。先程のゴツゴツとした岩肌とは違い、緑で覆われた地面が広がっている。
(鞄は見当たらないな……)
辺りを探してみたけれど鞄はなさそうだ。荷物を無くしたことで不安が胸の内に広がっていく。ストーンウルフも見当たらないため、崖から落ちたことでルキノのことを見失ったのだろう。
この場所がどこなのかはわからない。宛もなく彷徨い続けているうちに、足も重くなり始め、遂には座り込んでしまった。
助けを求めることも難しい。そのとき置いてきたはずの小鳥がルキノの足元へと降り立ったことに気がついた。
「……付いてきてくれてたんだな」
ルキノの魔力でできた小鳥だ。ルキノの場所もわかるのかもしれない。腕に飛び乗ってきた小鳥が伺うように顔をのぞき込んできた。まるで本物の小鳥のようにすら見える。目もなく、嘴(くちばし)からは音も出ない。それでも今は唯一の相棒だ。
動けないまま時間だけが過ぎていく。朝日はすっかり昇りきっていた。
(オライオン……君に助けを求めてもいいのかな?)
この小鳥を飛ばせば、きっとオライオンは気づいてくれる。助けてほしいとお願いすれば助けようとしてくれるはずだ。けれど別れを切り出した手前、助けを求めることを戸惑ってしまう。
それにこんな危険な場所に愛する人を巻き込むことなどしたくない。
悩んでいるうちにも時間は過ぎていく。
(もう少しだけ進んでみよう……)
ゆっくりと歩みを再開した。一歩一歩は遅くても、いつかはどこかに辿り着けるかもしれない。
ルーナディアを見つけてなんとしても帰ろう。まだやり残したことが沢山あるから。
レオナルドに自分の思いを伝えたい。薬草学者への道を進んでみたい。婚約のことももう一度エイリークと話し合いたい。
それにやっぱり──オライオンにもう一度会いたかった。
彼の声を聞きたい。本当の声を。音のある世界を取り戻してあげたいから。だから、ルキノは止まれない。
昼が過ぎて、ブルビエガレ森林での二度目の夜が来た。それでもルキノは進み続けた。腹も減り、足は傷だらけで痛々しい。棒のように思い太ももを無理に上げて踏み出す。そのとき、石に躓いて身体が地面へと倒れた。起き上がろうとするも疲労の限界で起きることができない。
小鳥が心配そうに頬を突いてくる。
「オライオン会いたい……。君に、もう一度だけ……」
思い浮かべるたびに会いたくなる。あんな別れ方をしてしまったことを謝りたい。愛しているのだと言葉にして伝えたかった。
瞳から涙がこぼれ落ちて地面を濡らした。その瞬間、小鳥が勢い良く空に向かってはばたいていく。
その背中を目で追いかけることすら、今のルキノにはできなかった。
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