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騒音 -4-

「――で、こちらが上の階にお住まいの、田中さんです」 高槻弁護士の少し強張った紹介で、俺の前に座った男 ―― 田中さんは、年の頃は30代半ばだろうか。痩せた肩を丸め、その姿はまるで、謝罪するために生まれてきたみたいに小さく縮こまっていた。 「ど、どうも…。あの、この度は、騒音の件、本当に申し訳ありませんでした…」 「いえ、こちらこそ。いきなり弁護士事務所から手紙なんて送ってしまって、驚かせましたよね」 意外なほど、隼人の声は穏やかだった。その殊勝な態度に、俺だけでなく、高槻も拍子抜けした顔をしている。おかげで、話し合いは張り詰めた空気もなく、静かに始まった。 高槻が、用意した資料に沿って騒音の事実確認を進めていく。田中さんは、そのすべてを、力なく頷きながら素直に認めた。そして、ぽつり、ぽつりと、その理由を語り始めた。 「…俺、昔から、音楽で食っていくのが夢でして。昼間は生活のためにバイトしてるんで、どうしても、練習が夜中になっちまうんです。防音のしっかりしたスタジオを借りるお金もなくて…。でも、もう、辞めます。ご迷惑を、おかけしました」 うつむいたまま、消え入りそうな声で、彼は自分の夢に終わりを告げた。その肩は、希望を失った人のそれだった。 高槻が「今後の慰謝料についてですが…」と、事務的に話を切り出そうとした、まさにその時だった。 「…どんな音楽、やってるんですか」 静寂を破ったのは、隼人の声だった。 いつもの、人をからかうような軽やかさはない。ただ、ひたむきで、純粋な興味だけが、その声に滲んでいた。 「え…?」 「だから、どんな音楽ですかって。俺、聞いてみたいです」 田中さんは、おずおずと顔を上げた。そして、自分の愛する音楽 ―― 少しだけ時代遅れの、でも魂のこもったロックについて、訥々と語り始めた。それは、決して流暢な語り口じゃなかった。それでも、そこには確かな熱があった。 そして、驚くべきことに、隼人はそれを、まるで宝物の話でも聞くみたいに、食い入るように聞いていた。目をきらきらと輝かせ、時折「へえ、そのバンド、俺も好きです!渋いですよね!」なんて、心の底から楽しそうに相槌を打ちながら。 高槻が、どうしたらいいのかわからない、という顔で俺に助けを求める視線を送ってくる。 俺も、ただ肩をすくめることしかできなかった。俺にだって、この展開は全く予想できていなかったのだから。 ひとしきり夢を語り終えた田中さんが、はっと我に返ったように再び頭を下げた。 「す、すみません、俺なんかの話を、長々と…」 「いや」 隼人は、それを力強い声で遮った。 「夢があるって、最高じゃないですか」 そして彼は、俺たちの常識を、根底から覆すようなことを言い放った。 「田中さん。慰料なんて、いりません。そのかわり、夜中に練習するのは、今日で辞めてください。…それで、提案なんですけど」 隼人は、悪戯が成功した子供みたいに、にっと笑って爆弾を投下した。 「うちの親父、新木場のほうにいくつか貸し倉庫を持ってるんですよ。今、一つだけ、隅っこの区画が空いてるはずなんです。そこ、使います? ボロいですけど、だだっ広いし、周りに民家もないんで、朝までギターをかき鳴らしたって、誰も文句言いませんよ」 「…………え?」 田中さんだけでなく、高槻も、そして、この俺も。完全に思考が止まった。 「い、いいんですか、そんな…」 「いいんですよ、どうせ空いてるんだから。その代わり、いつかライブやるってなったら、一番いい席、用意してくださいよ?」 あっけらかんと笑う隼人と、信じられないという顔で、静かに涙をこぼす田中さん。高槻が、我に返って「そ、それでは和解契約書の内容を、根本から修正しないと…!」と、慌ててペンを走らせる。 俺は、その光景を、ただ黙って見つめていた。 慰謝料を取り立て、相手を屈服させ、法的な勝利を収める。それが、俺たちが生きてきた世界の常識だ。 なのに、こいつは。 その常識を、いともたやすく飛び越えていった。金銭的な利益なんかじゃなく、相手の夢を守り、その上で自分の要求も通すっていう、誰も思いつきもしない方法で。 (…ただの、うるさいだけの、ガキじゃ、ないのか) 心の中で、凍りついていた何かが、ぱきりと小さな音を立てて変わっていく。 こいつの、その常識外れで、どこまでもまっすぐなやり方は――。 不覚にも、眩しくて、少しだけ、胸が熱くなった。

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