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潜入 -1-
「――じゃあ、そういうことで! 契約書、ありがとうございました!」
相葉隼人は、すべてをやり遂げた、というような晴れやかな笑顔を浮かべて、新人弁護士の高槻が差し出した和解契約書の控えを受け取った。その隣で、壁に寄りかかり腕を組んだままの俺、神崎徹は、ただ黙ってその光景を眺めている。
「いやぁ…相葉さんのようなクライアントは、初めてです」
高槻が、心底、感心しきった様子で呟いた。彼にとっても、この一件は弁護士人生で忘れられない、大切な記憶になるのだろう。
「そうですか? ま、俺なんで」
隼人は得意げに、そして悪戯っぽく笑った後、ふい、とその表情を消した。まっすぐで、真剣な眼差しが、俺を射抜く。
「神崎さん。俺、やっぱりあんたのこと、諦めきれません」
「……まだ、その話をするのか」
俺の、呆れたような塩対応にも、彼は全く動じなかった。それどころか、その瞳に挑戦的な光を宿して、どこまでもまっすぐに、宣言した。
「見ててください。俺、死ぬ気で勉強して、司法試験に受かります。そして、必ず、この事務所に就職しますから。――あんたの隣で、働くために」
その瞳には、一点の曇りも、迷いもなかった。
本気だ。こいつは、本気でやり遂げるだろう。 今日の、あの常識外れな和解案を成し遂げた彼を見ていると、そう思わざるを得なかった。いつもなら、何か皮肉の一つでも返せたはずなのに、そのあまりに純粋な熱量に、俺は何も言葉を紡げずにいた。
俺が黙り込んでいると、彼は満足げに口の端を上げ、エレベーターへと乗り込んでいく。
「それじゃ、また!」
閉じていく扉の隙間から、最後までこちらに手を振る姿が見えた。やがて、階数表示のランプが、静かにその数字を減らしていく。
「…行っちまいましたね」
隣で高槻が、ぽつりと呟いた。
「すごい学生でした。神崎さん、本当に好かれてるんですね」
「……気のせいだろ」
俺は、自分に言い聞かせるように素っ気なく返し、この場に残された、妙に落ち着かない空気から逃げるように、事務所に戻ろうと踵を返した。その時だった。
「――徹、ちょっといいか」
聞き慣れた、落ち着いた声に呼び止められた。振り向くと、高槻とは対照的な、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした男が立っていた。桐島 圭吾 。
桐島法律事務所。
その名から、誰もが桐島圭吾をこの事務所のトップだと思うだろう。
でも、実情は少し違う。 この事務所は、彼の父であり、俺の師でもあった故・桐島 壮介 氏が一代で築き上げた城だ。壮介氏が亡き後、事務所は彼の薫陶を受けた数人のベテラン弁護士による共同経営体制に移行した。現在の所長は、その中の一人。 圭吾は、創設者の息子で、事務所のエース。もちろん、共同経営者であるパートナーの一人として絶大な影響力を持っているけれど、彼自身は代表者の座に興味を示さず、あくまで一人の弁護士として現場に立つことを選んでいる。
父が遺したこの巨大な城の「王子」ではあるが、「王」ではないのだ。
そんな桐島 圭吾は、俺の数少ない友人で、この事務所のエースでもある、俺の本当の「同期」で「ライバル」で「相棒」。
「桐島、さん。お疲れ様です」
俺が会釈すると、彼はやれやれと肩をすくめた。
「『桐島さん』? よせよ。気色悪い」
彼はちらりと高槻に視線を送り、「新人、ご苦労」とだけ声をかけると、俺にだけ聞こえる声で続けた。
「所長から聞いた。来月から、正式なパラリーガルが入ることになったそうだ。お前との臨時業務委託は、今月いっぱいで終わり」
「ああ。助かる」
やっとこの面倒な仮初めの仕事から解放される。俺が安堵の息を漏らすと、圭吾は面白そうに口元を歪めた。
「…と言いたいところだが、残念ながら、お前にはまだ手伝ってもらいたい仕事がある。俺の案件で、な」
「断る。俺はもう…」
「探偵の仕事だ」
俺の言葉を遮り、圭吾は言った。彼の目が、獲物を狩る鷹のように鋭く光る。
「大手ゼネコンの社内横領疑惑だ。経理の人間が怪しいが、尻尾を出さない。弁護士として正面から行っても、何も出てこないだろう」
彼は、俺の肩を軽く叩いた。
「ミーティングルーム、行くぞ。お前がこれから行く『潜入』の相談だ」
俺は、静かに頷いた。 ようやく、俺の本業である探偵としての仕事が始まる。 相葉隼人が残していった、胸の奥で燻る、奇妙な熱を振り払うように。俺は圭吾の後を追って、事務所の奥へと歩き出した。
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