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潜入 -2-

圭吾の後ろについて、俺は慣れ親しんだ法律事務所の廊下を歩く。 足音を吸い込む、柔らかなカーペットの感触。紙とトナーが混じり合った、懐かしいインクの匂い。遠くで微かに響く電話の音。そのすべてが、数年前まで俺の世界そのものだった。 愛していて、そして、憎むほどに絶望した、俺の世界。 俺の古巣、桐島法律事務所。 その名は、日本の経済界において、絶対的なブランドとして確立されている。企業が存続の危機に瀕した時、絶対に負けられない戦いを挑む時、最後に駆け込む「不敗の砦」。それが、世間がこの事務所に寄せる評価だ。 その礎を築いたのは、俺の師であり、圭吾の父であった故・桐島壮介氏。 彼は、依頼人にとっては神のような救世主(メシア)だった。悪魔的なまでに冴え渡る弁論術と、常識の枠を超えた戦略で、どんな窮地からもクライアントを救い出してみせた。若かった俺にとっても、彼は憧れの、絶対的な存在だった。 …それでも。 その光が強ければ強いほど、落ちる影もまた、濃くなることを、俺は誰よりも近くで知ってしまった。 勝利のためには、いかなる手段も厭わない。清濁併せ呑む、なんて言葉では生ぬるいほどの、冷徹なリアリスト。それが、彼のもう一つの顔。そして、俺が飲み干すことのできなかった、深い闇だった。 壮介氏が亡き後も、「桐島」の看板は残った。その強大なブランド力が、今も事務所を支えている。現在の所長は、その遺産を守ることに必死で、そして息子の圭吾は、偉大すぎた父の影と、今も一人で戦い続けている。 俺にとって、ここはかつて夢見た場所で、そして、俺の夢が、音を立てて砕け散った場所でもある。 俺は、この事務所の元弁護士だ。 数年前のある事件をきっかけに、法廷を去った。正義を信じられなくなり、人を信じることに疲れた果てに、たった一人で小さな探偵事務所を開いた。 なのに、現実は甘くない。 理想だけでは飯は食えず、鳴かず飛ばずの俺の探偵業は、常に経営難にあえいでいる。 痛いほどの皮肉だけど、そんな俺の頼みの綱は、自ら捨てたはずのこの法律事務所からの依頼だ。圭吾をはじめ、俺の腕を個人的に信頼してくれる数人が、時折こうして調査案件を回してくれる。それがなければ、とっくに廃業していただろう。 今回、俺がパラリーガルなんて不慣れな仮面を被っているのだって、もちろん理由がある。高槻君のような新人を指導するはずだった、信頼の厚いベテランのパラリーガルが、予定より早く産気づき、育休に入ってしまったのだ。代わりが見つかるまでの、ほんの数週間。その窮状をしのぐために、内部事情をよく知る俺が、日当の良い業務委託で引っ張り出された。俺にとっても、事務所にとっても、それは渡りに船の話だった。 …まさか、そこで一生分の面倒を背負い込むことになるなんて、思いもしなかったけれど。 圭吾が、一番奥のミーティングルームのドアを開ける。ひやりとした空気が、火照った肌を撫でた。 「コーヒーでいいか」 サーバーに向かう圭吾の背中を感じながら、俺はテーブルにつく。 (……やはり、性に合っている) 心の中で、静かに呟く。 弁護士は、法的な『勝利』を目指す。依頼人の利益のために、時に白を黒だと言いくるめる技術さえ必要になる。真実が何であったか、よりも、法廷で何が『事実』として認定されるかが全ての世界。 俺は、それに、もう疲れてしまったんだ。 でも、探偵は違う。 探偵が探すのは、勝利じゃない。ただ、ひたすらに『事実』だ。 誰かの利益のためじゃなく、ただそこに在る、動かしようのない証拠や痕跡を拾い集める。解釈も、ましてや隠蔽もしない。見つけたものを、そのまま依頼人に渡す。それが、俺の仕事。 その方が、よほど俺には合っている。 「――さて」 圭吾が、コーヒーカップを俺の前に置きながら、ノートパソコンを開いた。その瞳が、鋭く光る。 「例のゼネコンの話だが…」 俺は、立ち上る湯気ごと、コーヒーを一口すする。 仮初めのパラリーガルの時間は、もう終わった。 ここからは、探偵・神崎徹の仕事だ。

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