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潜入 -3-
8月中旬、土曜日の夜。 大手ゼネコン『サザン中央建設』の経理部。
その広大なフロアの蛍光灯が、最後の一本を残して消えた。静寂を支配するのは、サーバーの低い唸りと、壁にかかった時計の秒針が無機質に時を刻む音だけ。まるで、巨大な鋼鉄の墓標のようだ。
その暗闇の中、一つのデスクだけが、ノートパソコンの青白い光に照らされている。
俺、神崎徹は、その光の中に浮かび上がる、孤独な影。 表向きの顔は、監査法人から派遣された、腕利きのシステムコンサルタント。でも、それはこの任務のためだけに用意された、仮初めの姿に過ぎない。
昼間の俺は、無口で、けれど仕事のできる男を完璧に演じていた。
「神崎さーん!すみません、このマクロがどうしても動かなくて!」
悲鳴のような声を上げる女性社員のデスクに向かい、彼女が半日格闘した複雑なエラーを、ものの数分で修正してみせる。感謝と、ほんの少しの尊敬が入り混じった熱っぽい瞳を向けられても、ただ「…どうぞ」とだけ返し、自席に戻る。そのクールな態度が、かえって社内での俺の評価を高めているようだった。頼れるけれど、どこか影のある、謎めいたコンサルタント。潜入するには、これ以上なく好都合な立ち位置だ。
でも、夜は違う。
昼間の俺が手に入れた偽りの「信頼」を使い、俺は、俺だけの狩りの時間へと移る。
ターゲットは、経理課長の山田。俺は彼のデスクの前に立つと、慣れた手つきで引き出しの鍵を開けた。昼間、彼がコーヒーを買いに立ったほんの一瞬で、その鍵の型は、俺の網膜に焼き付いている。
ゴミ箱の中身、手帳に殴り書きされた走り書き、くしゃくしゃのレシートの束。パズルのピースを拾い集めるように、男の生活の痕跡を、俺は静かにたどっていく。何も見つからない。警戒心の強い男だ。 …それでいい。本命は、別にあるのだから。
数日後。銀座のきらびやかなネオンが、夜の闇を溶かしていく。 俺は、経理部主催の歓迎会という名の、退屈な飲み会に参加していた。主役はもちろん俺。でも、俺の視線は、上座で上機嫌に酒を飲む山田に、冷たく固定されていた。
「山田課長、羽振りいいっすよねぇ」
酔った若手社員が、媚びるような声でおべっかを使う。
「銀座のクラブ『アフィーナ』の、あの美人なレイナさん? 課長がご指名って、もっぱらの噂で…」
『アフィーナ』、そして『レイナ』。俺はその名前を、脳の片隅に、静かに刻み込む。
その夜から、俺の狩場は会社の外へと移った。 クラブ『アフィーナ』が入るビルの向かい、駐車場の暗がり。そこが、俺の新しいオフィスになった。数夜にわたる張り込みの末、その瞬間は訪れた。
閉店後、きらびやかなドレスに身を包んだ女と、腕を絡めて出てくる山田。会社で見せる生真面目な仮面を脱ぎ捨てた、欲望に溶けきっただらしない顔。俺は、望遠レンズのシャッターを、息を殺して切り続けた。 その女、レイナ名義の銀行口座に、山田の給料だけでは到底説明のつかない金が、毎月のように振り込まれていることを突き止めるのに、そう時間はかからなかった。
動機の証拠は、揃った。
あとは、その汚い手口だけだ。 会社に戻った俺は、最後の罠を仕掛ける。
「システム移行前の最終データバックアップ」という、誰も疑いようのない口実を使って、山田のPCへのフルアクセス権を得た。そこで仕込んだ監視ソフトが、最後の答えを、俺の元へと静かにもたらした。
山田は、存在しない複数のペーパーカンパニーから、巧妙に偽装した架空の請求書を発行。それを自ら承認し、会社の金を横流ししていた。そして、その金の最終的な行き先は――。
二週間後。 俺は、かつて自分がいた法律事務所のミーティングルームにいた。 テーブルを挟んで向かいに座る圭吾の前に、分厚いファイルを滑らせる。
「…報告書だ」
圭吾は無言でファイルを開き、そのページをめくり始めた。 最初は、冷静な弁護士の顔だった。でも、ページが進むにつれて、彼の眉間に深いシワが刻まれていく。金の流れを精密に図解した相関図、数十枚にわたる架空請求書のデータ、山田と愛人が密会する鮮明な写真…。そして、山田がペーパーカンパニーの口座にアクセスしているPC画面の、動かぬ証拠。
最後のページをめくり終えた圭吾は、ファイルを閉じると、深く、長い息を吐いた。そして、まるで呆れるように、でも、どこか感心するように、顔を上げて笑った。
「…相変わらず、えげつない仕事ぶりだな、お前は」
「そのえげつない仕事依頼したのはお前だろ」
俺が提出したのは、単なる調査報告書じゃない。 それは、相手が一切の言い逃れも許されず、法廷で沈黙するしかない、『完封勝利』を約束された、完璧なシナリオだった。 俺は黙って、圭吾が出してくれた、すでにぬるくなったコーヒーを口に運んだ。 これが、俺の仕事だ。ただ、それだけだ。
◇◆◇◆◇
桐島圭吾は、目の前に置かれた完璧な調査報告書から、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、仕事仲間としての惜しみない称賛と、友人としての、どうしようもなく複雑な感情が入り混じっている。
「…この報告書、そのまま検察に持って行けるレベルだな。高槻あたりが書いたら、一週間はかかるぞ」
「だろうな」
俺、神崎徹は、ぬるくなったコーヒーをすするだけで、特に感情は見せない。これは、俺の仕事だ。やるべきことを、ただやった、それだけ。
圭吾は、指でトントンとファイルの表紙を叩きながら、まるで独り言のように、でも、明確な意志を込めて呟いた。それはきっと、俺たちがもう何度も、何度も繰り返してきた、痛みを伴う儀式のような会話の始まりだった。
「徹…いい加減、こっち側に戻ってこいよ」
その声には、揶揄も、命令もなかった。ただ純粋な、そして少しばかり疲労をにじませた、本心からの響きがあった。
「お前のその腕は、こんな単発の調査で使い捨てるには、あまりにもったいなさすぎる。お前の本当の居場所は、場末の探偵事務所じゃなく、ここだろ。…俺の隣だろ」
圭吾は、まっすぐに俺の目を見る。その瞳に宿る真摯な光に、一瞬、胸の奥がちりりと痛んだ。 あの頃のように、隣に立って戦えたら。そんな、ありえない未来が一瞬だけ、頭をよぎる。 でも、すぐに、あの日の絶望が、その甘い感傷を容赦なく打ち消した。
「考えるまでもない」
即答だった。俺は、その危険な考えを振り払うように、空になったコーヒーカップをソーサーに戻す。カチャリ、と乾いた音が、静かな部屋に響いた。
「…俺にはもう、誰かの『勝利』のために、真実を捻じ曲げることはできない。ただ、そこにある『事実』を見つける。それだけが、今の俺にできる、唯一のことだ」
俺の仕事は、この報告書を圭吾に渡した、まさにこの瞬間、終わっている。この先、この事実を使って相手をどう追い詰めるか、どう交渉するかは、弁護士である圭吾の領域だ。俺がもう二度と、足を踏み入れてはならない場所。
俺は椅子から立ち上がり、ドアに向かった。これ以上、ここにいるのは良くない。 その背中に、圭吾のため息まじりの声がかけられた。
「…お前は、本当に変わらないな。頑固なところも」
「お前もな。しつこいところも」
俺は、振り返らずに答えた。
「もうそろそろ、諦めろよ」
その言葉だけを残して、俺はミーティングルームを後にした。廊下に響く自分の足音を聞きながら、圭吾が今、どんな顔をしているのか、考えないように、必死に努めながら。
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