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潜入 -4-
ミーティングルームを出て、俺は誰にも声をかけず、古巣の法律事務所を後にした。
エレベーターが、音もなく滑るように下降していく。ガラス張りの壁の向こうには、まるで宝石箱をひっくり返したみたいな、無数の東京の夜景が広がっていた。綺麗だ、と思う。でも、その光の一つ一つに、人の営みと、そしてきっと、誰かの涙が滲んでいることを、俺はもう、知ってしまったから。
圭吾の「戻ってこい」という言葉が、錆びついて固く閉ざした扉を、無理やりこじ開けるように、忘れたはずの記憶を呼び覚ましていく。
あれは、俺がまだ、弁護士バッジの重みに輝かしい未来だけを感じていた、5年前のこと。
当時の俺は、圭吾の父 ―― 桐島 壮介 弁護士の元で働いていた。壮介氏は、圧倒的なカリスマと、悪魔的なまでに冴え渡る弁論術で、数々の大企業を勝利に導いてきた、俺にとって神様みたいな存在だった。彼の元で働けることは、何よりの誇りだったんだ。
問題の案件は、大手メディア会社『新星ジャーナル』が、新進のドキュメンタリー制作会社から「アイデアを盗用された」と訴えられた裁判。俺たちは、もちろん『新星ジャーナル』の弁護団だ。
若さゆえの熱意、と今なら言える。俺は、誰よりも深く資料の海に潜った。そして、見つけてしまったんだ。
『新星ジャーナル』の企画会議の、ボツになったはずの議事録データ。そこには、相手方がプレゼンに来るよりも前に、酷似した企画が検討され、「斬新さに欠ける」として正式に却下された記録が、タイムスタンプ付きで残っていた。これさえあれば、俺たちの無実は証明できる。完璧な証拠だった。
でも同時に、俺は別のファイルも見つけていた。
裁判が始まる直前、『新星ジャーナル』が、金で雇った評論家を使って、相手方の制作会社の過去の作品を、ネット上で「捏造だらけの三流作品だ」と、意図的に炎上させていたことを示す、生々しいメールのやり取りだった。
俺は、そのメールをプリントアウトして、壮介氏に見せた。
「桐島先生。これは、我々の勝訴とは関係ありません。でも、やり方としてあまりに汚い。弁護士として、見過ごすことは…」
若かった俺は、そう直言した。
壮介氏は、俺の報告書に静かに目を通すと、穏やかな、それでいて有無を言わせぬ声で言った。
「神崎君。君の調査能力は素晴らしい。…でもね、これは今回の『盗用訴訟』の論点とは、全く関係がないんだ」
「ですが!」
「いいかい。我々の仕事は、依頼人の利益を守ることだ。このメールを提出すれば、メディアは面白おかしく騒ぎ立て、裁判官の心証は確実に悪くなる。我々は、勝てる戦を、自ら不利にする必要はない」
彼は、俺の肩を、父親のように優しくポンと叩いた。
「君のその正義感は、素晴らしい長所だ。でもね、今はまだ、それを出す場面じゃない」
尊敬する師の言葉に、俺はそれ以上何も言えなかった。心のどこかで、何かが違うと叫んでいても、彼の判断が正しいのだと、必死に自分に言い聞かせた。
結果、裁判は俺たちの圧勝に終わった。俺が見つけた議事録が、決定打となった。
祝勝会で、クライアントから惜しみない賛辞を浴びる壮介氏。その隣で、俺はシャンパンの味が、まるで砂のようだと思った。
そして、不幸は、静かに、でも確実に起きた。
裁判で敗訴した相手方は、ネットや電話など執拗に続いた誹謗中傷と嫌がらせ。それに耐えきれず、社長が自ら命を絶った。小さな会社は、ひっそりと倒産して、社員は路頭に迷った。
新聞の片隅に載ったその小さな記事を握りしめ、俺は壮介氏の研究室に駆け込んだ。
「先生!俺たちが、あのメールを公にしていれば、こんなことには…!」
壮介氏は、分厚い法律書から目を離すこともなく、ただ静かに言った。
「…慣れろ、神崎君」
「――え?」
「我々の勝利と、彼の死に、法的な因果関係はない。それだけだ。感傷的になるな。そんなものにいちいち心を痛めていたら、この仕事、身が持たないぞ」
その瞬間、俺の中で、信じていた世界が、がらがらと音を立てて砕け散った。
俺が夢見た正義も、神様だと信じていた師の姿も、すべてが、すべてが偽物だったと知った。
チン、という無機質な到着音で、俺は現在に引き戻される。
エレベーターが、一階に着いていた。
そうだ。俺は、もう夢を見ていない。
弁護士という、綺麗事で塗り固められた虚構の正義を追いかける夢を。
だから、もうあの場所には戻れない。戻るつもりも、ないんだ。
俺は、夜の冷たいアスファルトに、一人、足を踏み出した。
二度と、振り返らないと心に誓って。
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