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潜入 -5-
騒音騒動の相談をして運命の出会いを得た。
あれから二週間。まだ残暑が厳しい 8 月の終わり、相葉 隼人は、早くも一つの扉をこじ開けていた。
法曹界に多くの人材を輩出しているK大学法学部での、他の追随を許さない卓越した成績。そして、あの騒音訴訟で見せた、ただの学生とは思えない常識外れの交渉能力。
それらを武器に行われた面接で、隼人は、たった一つの、あまりに純粋な本音を隠していた。 「神崎徹の隣で働く」という、あまりに純粋で、そして狂おしいほどの想いを、「この事務所で、弁護士として多くを学びたい」という、模範的な建前の裏に。
その、隠しきれない熱意とずば抜けた優秀さを、桐島法律事務所の所長はいたく気に入り、異例の速さで、隼人は学生アルバイトの座を勝ち取ったのだ。
もちろん、彼の原動力は、ただ一つ。
あの日、愛しい人の前で立てた、「隣で働く」という誓いだけだった。
でも、彼が初めて期待に胸を膨らませてこのオフィスの門を叩いた日、そこに神崎徹の姿はなかった。
「神崎さんは、以前、短期の業務委託で手伝っていただいただけですので…」
あの時の担当弁護士だった高槻にそう教えられた時の、目の前が真っ暗になるほどのショックを、隼人は今も忘れられない。
辞めていた…? 俺が、あの人の顔だけを思い浮かべて、死ぬ気で勉強している間に、あの人はもう、ここにはいなかったのか?
それでも、彼は諦めなかった。
いつか、何かの形でまた会えるはずだ。その時、胸を張って隣に立てるように。今は、自分にできることを全力でやろう。そう心に誓い、彼は誰よりも熱心に、膨大な雑務に励んでいた。毎朝、オフィスに来るたびに、どこかにあの人の影を探してしまう自分に、気づかないふりをしながら。
その日、隼人は、大量の裁判資料のコピーを終え、自分のデスクに戻ろうと廊下を歩いていた。角を曲がろうとした、その時だった。
ドン、と誰かの硬い肩にぶつかる。抱えていた資料が、白い鳥の群れのように、ばさりと床に散らばった。
「す、すみません!」
慌てて謝罪し、床の紙を拾おうと屈みかけた隼人の動きが、ぴたりと止まる。 目の前に、見覚えのある、上質な革靴があった。
そして ―― 何よりも。 ここ数ヶ月、夢の中でさえ、焦がれるほどに聞きたかった、低く、静かな声が、頭上から降ってきた。
「…いや、こちらこそ。前を見ていなかった」
その声に、隼人は弾かれたように顔を上げた。 そこに立っていたのは、ここ数ヶ月、片時も忘れたことのなかった男 ―― 神崎徹だった。隣には、エース弁護士の桐島圭吾が、全てを見透かしたような、面白そうな顔で立っている。
「か、んざき…さん…?」
隼人の声が、情けなく上擦る。なんで。どうして、ここにいるんですか。 神崎は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、すぐにいつもの、感情の読めない無表情に戻ってしまった。
「確か、相葉…君か。なぜ、ここに」
「な、なぜって…俺、ここでバイトしてるんです! 約束通り、就職するために…!っていうか、あんたこそ、なんで!辞めたって…!」
混乱し、言葉がしどろもどろになる隼人。その様子を、圭吾が楽しげな笑みで眺めていた。
「ああ、徹の熱烈なファンじゃないか」
「…圭吾、余計なことを」
圭吾は、呆然と立ち尽くす隼人に、ひらひらと手を振る。
「悪いな、相葉君。こいつはもう、うちの事務所の人間じゃないんだ。俺が個人的に依頼している、外部の協力者でね」
そして、圭吾は神崎の肩を、親しげに叩いた。
「――俺の、とっておきの『探偵』さ」
探偵。 隼人の頭の中で、その言葉が、まるで知らない外国語のように反響する。 神崎は、居心地が悪そうに眉をひそめると、圭吾にだけ聞こえる声で「報告書は、ミーティングルームで」と呟いた。
「わかってるよ。じゃあ相葉君、仕事、頑張ってくれ」
圭吾はそう言って、神崎の背中を押すように事務所の奥へと歩き出す。神崎は一度もこちらを振り返らない。 あっという間に、二人の背中は廊下の向こうに消えていった。
床に散らばったままの書類と、耳元で鳴り響く自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。 やっと、会えた。 でも、あの人はもう、ここにはいない。探偵…? どういうことだ。わからないことだらけだ。
それでも、一つだけ、確かなことがある。
――やっぱり、あの人は、最高にかっこいい。
隼人は、床の書類をかき集めながら、誰にも見られないように、不敵な笑みを浮かべた。 望むところだ。弁護士と、探偵。面白くなってきたじゃないか。 必ず、もう一度あの人を捕まえて、隣に立ってみせる。 隼人の心に、再び蒼い炎が、静かに、でも、決して消えることのない強さで灯った瞬間だった。
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